豊見城市の歴史によると、14世紀頃まで南山王の支配下において、豊見城(とみぐすく)、瀬長(せなが)、長嶺(ながみね)、平良(たいら)、保栄茂(びん)にグスク(城)を築かせたように、極めて重要な地域社会を形成していました。
17世紀に首里王府により統治され、「豊見城まじり」と称し、長い歴史があります。
東御嶽(アガリウタキ)
西御嶽(イリウタキ)
中道
保栄茂東(アガリ)地区
保栄茂西(イリ)地区
当時は、糸満や小禄、安次嶺付近までの範囲で39の村々がおかれ、字保栄茂(びん)もその1つでした。
保栄茂グスク跡から見た保栄茂集落
保栄茂馬場(ビンウマイー)
字保栄茂(びん)の集落発祥については、明確な記録もなく定かではありませんが、古老達の話や数少ない資料などから推測すると、この地に分村してきた先住者たちは、まず、保栄茂(びん)の東御嶽(あがりうたき)を御嶽(うたき)として定めた。