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空手の流派流派

 

 

  • 12.松濤館(流)

    船越義珍
    松濤館(流)とは沖縄空手を日本本土や諸外国へ広めた第一の功労者である船越義珍を開祖とする(流派)である、書物の中で松濤館(流)と( )で記述されているのは多くの弟子達が松濤館流の旗揚げをいくら進めても船越義珍本人が強く抵抗し晩年まで「首里手」(スイティ)系の唐手(トウティ、カラテ)という公称に強いこだわりを見せ松濤館流というー流派としての設立には難色を示し続けていたのが原因だとも言われている。

    大正時代にはまだ沖縄空手界において「流派」の設立はまだ胎動期であった事を考慮するに謹厳実直そのものだった船越義珍にしてみれば明白な心の内であったのだろう。 ちなみに松濤とは船越義珍の雅号である。

    日本本土で初めて公式に沖縄空手の演武が行われたのは1916年(大正5年)に京都武徳殿で船越義珍が又吉眞光(古武道)と共に沖縄を代表して演武したのが最初であった、その後船越義珍が沖縄空手の日本本土や世界への普及の為にその一生をささげたことは周知のことである。

    1939年(昭和14年)東京都豊島区に門下生の浄財による「松濤館道場」が日本で初めての本格的な空手道場であった。
    空手に一生をささげた偉大な空手家「船越義珍」70歳にして頂いた珠玉の贈り物であった。
    現在、松濤館(流)は船越義珍の熱情と想いが多くの門下生に継承され世界に約100ヶ国にも及ぶ支部が展開されている。
    小さな沖縄で生まれた空手が世界の多種多様な民族に愛され普及していく様には深い感動さえ禁じ得ない。
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  • 11.松林流

    長嶺将真
    松林流は長嶺将真を開祖とする琉球古伝空手の首里手(スイティ)泊手(トマイティ)系統の流派である、長嶺将真は「首里手」の中興の祖である松村宗昆の直弟子喜屋武朝徳と「泊手」の中興の祖松茂良興作の弟子で歴史に名高い本部朝基という両雄に師事している、長嶺将真は両中興の祖の武徳を後世に残すべく松林流と命名した根拠だと語っていた。

    長嶺将真は1907年(明治40年)那覇泊村に生まれ16歳の時生涯かけて空手の修行をする決心をし警察官となりその志を貫徹した。
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  • 10.湖城流

    蔡襄(さいじょう)
    湖城流の歴史は古く、1392年に「久米三十六姓」が来琉し那覇の久米村に移住した時に遡る。湖城流の教祖は「久米三十六姓」の出身地である中国福建省泉洲南安(現・泉洲市)の生まれで、名を蔡襄(さいじょう)という。

    蔡一族は久米三十六姓の一団と共に久米村に住み、その分家の一つが湖城家の始まりであり那覇久米村の士族である。一族は国師、三司官、大通事などの琉球王府の高官を歴任し長年琉球王府を支えた。湖城流は湖城親方(1656~1737)を流祖とし、士族・湖城家に伝わった門外不出の空手の流派である。湖城流の技法に特徴としては打撃による連続攻撃の後、取手{関節技・投げ技}などで勝負を決めることにある。

    初代は「生まれ武士」の異名をとる湖城親雲上(こじょうぺーちん)。二代目は「聖人タンメー(翁)」と呼ばれた蔡昌偉(さいしょうい)。三代目の湖城以正(いせい)は“名人”と呼ばれ、16歳の時、従兄の大禎(たいてい)と共に中国に渡り中国の武官・イーファーに師事、その師範代を務めた。

    1879年の琉球処分の頃、親清派であった以正は琉球王府に保護請願使として中国・清に渡ったが既に明は衰退し、清の時代に変わる動乱期であった。湖城以正は琉球に帰国することなく、福洲城内の「琉球館」近くに邸宅を買いとり唐手道場を開設した。余談ではあるが上地流の開祖・上地完文も中国に渡って初めて師事した空手の師は湖城以正であった。従兄の湖城大禎も「豪拳タンメー」と呼ばれ、武術・槍術・儒学を修めた武人であり東恩納寛量との「三戦論争」は有名である。また船越義珍が最初に唐手の伝授を受けたのも湖城大禎だと言われている。

    四代目・湖城嘉宝(かほう){1849~1925}
    五代目・湖城再境(さいきょう){1873~1941}
    六代目・湖城嘉富(かふう 又は よしとみ){1909~1996}
    七代目・湖城繁(しげる){1934~1999?}

    歴代の湖城流はいずれ劣らぬ歴史に武名を轟かした武術の系統であるが、七代目の湖城繁が那覇市壺屋に開設していた道場を体調不良のために1975年に閉鎖、その後沖縄には湖城流の道場は登録されていない。沖縄における湖城流の継承者が不明の為、湖城流は「幻の空手」として今なお惜しまれ続けている。しかし現在湖城流を受け継いでいる空手道場は沖縄にはないものの、湖城嘉富の高弟・林伸伍が鳥取県に開いた道場がある。

    湖城流の型は6つあるとされ、「天」「空」「地」と命名され、それぞれ4つの構えがありその12種の構えの名称は12支に分けられている。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道事典」
     − 「精説 沖縄空手道」
     − 「唐手術」
     − 「沖縄空手列伝百人」
    参考サイト
     − ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/湖城流
  • 9.泊手系の系統図

    9.泊手系の系統図

    泊手系の系統図

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  • 8.那覇手系の系統図

    8.那覇手系の系統図

    那覇手系の系統図

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  • 7.首里手系の系統図

    7.首里手系の系統図

    首里手系の系統図

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  • 6.古武術の誕生と系統図

    6.古武術の誕生と系統図

    沖縄の古武術系統図

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  • 5.小林流

    知花朝信
    ≈ 受け継がれてきた流れをみると、琉球王朝時代に「手(てぃ)」の源流とも言われる首里手の直接的な継承で小林流が誕生していることは明白である。知花朝信は多和田真睦にも師事し、多和田の「パッサイ」や「サイ」なども継承している。

    沖縄の空手と沖縄古武道とは不離一体の関係にあるのは、知花朝信の頃のようにまだ流派の結成がなされておらず、一人の空手修行者が他の系統の先生にも師事することは普通に行われていたことであった。

    首里手の流れを汲む小林流は(他の流派も概して同じ)知花朝信の世代から多くの流派に分かれていく。

    船越義珍 → 松濤館
    本部朝勇 → 本部御殿手
    本部朝基 → 日本傳流兵法本部憲法(本部流)
    知花朝信 → 小林流
    魔文仁賢和→ 糸東流
    遠山寛賀 → 修道館
    祖堅方範 → 小林流松村正統
    などである。
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  • 4.糸東流

    糸洲安恒
    探求熱心な魔文仁賢和はその二大系統以外にも、松村派、新垣派などの修行も修めたが、空手以外でも琉球古武道をも学んだ。魔文仁賢和の異なる派の空手や古武道を自由に学べたことは、空手がまだ「流派」発生以前のことだったから出来たことだと思われる。

    やがて開祖を源流として各流派が誕生し、「型」などもそれぞれの流派の「型」が体系化され、その流派の聖典となりお互いの流派を超えて学びあう交流は極端に少なくなっていった。

    その反面、先人から受け継いだ人間性、型、鍛練法など、改組の頃に確立された崇高な理念がいたずらに改変される事なく伝統として現在に息づいていることは貴重な存在である。
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  • 3.上地流

    上地寛文
    1924年(大正13年)、47歳の上地寛文は和歌山県和歌山市に転出、1932年「パイガイヌーン(半硬)流唐手術研究所」を開設、初めて流派を名乗り門戸を一般に開放した。1945年(昭和20年)沖縄に帰った上地完文は名護に上地流の空手道場を開設するが、3年後の1948年(昭和23年)全てを長男の完英に託し没した。享年71歳。 上地流の技法上の特徴としては、開祖・上地完文が中国福建省で学んだ南派小林拳の「龍虎鶴の拳」をその核としている。「龍虎鶴の拳」とは、この三種の動物の攻防の特徴を型の中に活かし、体系化したと言われている。上地流は、その肉体を極限まで鍛え上げ、一撃必殺の攻撃と完璧なまでの防御の体躯に仕上げ「眼精手捷(がんせいしゅしょう)」の言葉通り、無駄な動きや誇張された動作がなく、破壊力と防御、攻防一体となったそのスピーディで流れるような型は心技の一体化を成し得た美しさを伴っており、見る人々に感動を与える。

    目的を持って鍛えられた人間の体は、男女問わず美の世界へ至るものだが、武術の武器そのものになるべく鍛え抜かれた体は、司法の場では凶器として解される。上地流に見られる、特に手足の指先を鍛え抜いた攻撃は、対峙する相手の深部までも到達するような他の流派には見られない極めて強力な一撃必殺の破壊力を秘めている。
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  • 2.剛柔流

    宮城長順
    剛柔流の名前の由来としては開祖・宮城長順が1621年(明治元年)に中国の茅元儀(ぼう げんぎ)が編算した兵法書『武備志(ぶびし)』の中の「法剛柔呑吐身随時応変」(法は剛柔を呑吐し身は随時応変す)の一文から「剛柔流」と命名した。宮城長順の命名した剛柔流は日本における空手の流派名としては最古のものである。

    1930年初期に宮城長順によって命名された剛柔流は、現在では世界に支部道場が広がり、今後はこのネットワークを活用した一層の発展が期待されている。
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  • 1.沖縄空手の流派の誕生

    history009
    ゆるやかに拘束され区別されている「手」系統の中でも特に優れた修行者の中には、自分が学んでいる先生以外の先生からも学び、あるいは修錬を積み重ねている間に独自の工夫を凝らし、新たな技法や形を追加していく者が現れた。その新たに生み出された技術や合理性、理論などの持つ独自性や優劣さによって新たな流派の誕生となった。

    首里手から派生した知花朝信を開祖とする小林流や上地流、剛柔流、その他の流派の開祖の時代に見ることができる。しかし他の芸能や芸術、武道にも一様に見受けられるように本流に比較しても何ら新しい独自性、合理性、理論性も生み出すこともなく、次々と新しい流派を名乗り、限りなく薄く広がりつつあることは、この世界の封建制を打破することとは別に多くの関係者が心を痛め危惧していることの一つである。
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