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空手の人物

 

  • 13.-湖城嘉富 -

    湖城嘉富
    (こじょう かふ)1909年~1996年 武道家
    湖城は、中国の福建省泉州南安の祭襄を始祖とする湖城流の6代目である。蔡崇の時、「久米三十六姓」の一団として来琉し、蔡一族は久米村に定住し、祭一族から分家し湖城(クグスク)の琉球姓を名乗り琉球王朝に仕えた。
    嘉富は、祖父の嘉宝の下で武術を受け、さらに叔父の湖城秀連の教えも受けた。師からは、一般にない独特の構えで柔らかく、かつ鋭いといわれている。後に、長男の繁とともに那覇市に道場を開設したが閉鎖し、87歳でこの世を去った。現在県内では、湖城の現役道場の存在はなく‘幻の空手’として凄く明瞭でありながら後継者の存在が不明瞭のため、惜しまれている。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道事典」高宮城 繁 (著), 仲本 政博 (著), 新里 勝彦 (著)
    参考サイト
     − 
  • 12.-呉賢貴 -

    呉賢貴
    (ご けんき)1886年~1940年 拳法家・茶商
    1926年に来流して、東町の茶商の手伝いをしながら独立し、「永光茶行」という会社を営んだ白鶴拳の達人である。呉は、沖縄の空手家に大きな影響を与え、現在でも台湾の拳法界で大きな門派の一つとされている。呉道場の一番弟子は安仁屋正昌とし、門弟たちに技を教えた。稽古は無料で行い、種々の体錬法と二つの型を中心にして行った。呉の得意な「鶴の手」は、剛柔流の開祖である宮城長順が惚れ込んでいた。
     呉は大正初頭から沖縄の空手会で知られる存在で、呉以外にも斯界で知名度の高い唐大基という五祖拳の達人もいる。現在、フィリピンに最も普及している拳法である。宮城長順と呉は相互に敬愛し合っていた。宮城は中国拳法の研究をし、その記念として短冊を交換した。その短冊には、「拳を通して日中親善のために尽力することを誓う」と記され、交流の裏には安仁屋正昌がお膳立を務めた。今日では、貴重な歴史的史料として評価されている。1940年、日中戦争の中、肺炎を患い54歳で世を去った。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道事典」高宮城 繁 (著), 仲本 政博 (著), 新里 勝彦 (著)
    参考サイト
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  • 11.-喜屋武朝徳 -

    喜屋武朝徳
    (きゃん ちょうとく)1870年~1945年 武術家
     琉球王国第二尚氏の第4代尚清王の末裔として生まれた。6歳の時から父から空手の手ほどきを受けて上京し、16歳頃までには漢学をも修め文武両道において優秀な人物であった。朝徳は小柄で体が弱かったが、父の厳しい鍛錬のおかげで体はみるみるたくましくなっていった。父以外にも糸洲安垣や松村宗棍、親泊興寛の教えも受け、人一倍苦行を重ね、‘喜屋武小(チャンミーグヮー)’といわれるほどに武才を発揮し、術をこなした。
    その後、廃藩置県で士族の地位と職を失い、読谷村で養蚕をしていたが、当時尚家の役人の屋良親雲上から「北谷屋良の公相君」と称された。警察署員や教員をした後に、空手の修行や指導、演武をした。巡業では、様々な場所で演武大会を行った。小柄な朝徳の武勇を語る挿話は50代を過ぎてからの出来事である。終戦1年前の読谷飛行場建設慰問演武会では、75歳にも関わらず鎮闘の型や棒術を披露し、生涯武道を一身で示した武人である。晩年は、第二次世界大戦となり収容所での生活となるが、生涯を終えるまで拳音を響かせた人物であった。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道事典」高宮城 繁 (著), 仲本 政博 (著), 新里 勝彦 (著)
    参考サイト
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  • 10.-上地完清 -

    上地完清
    (うえち かんえい)1911年~1991年 武道家
    本部間切伊豆味村出身で上地流開祖の上地寛文の長子である。1927年に父の上地寛文のもとで宗家2代目として修行を始める。1937年には免許皆伝をし、大阪に道場を開設した。1940には兵庫県に道場を移設し、「上地流空手術研究所」に改名した。三戦を修行者の第一関門として、十三や三十六という型は単調で厳しかったが、数々の武人を生み出した。
     1942年には、名護の宮里に道場を開設し、近隣の青年や生徒たちの稽古を開始して上地流の芽生えとなる。その後、太平洋戦争となり門弟子が減りながらも、当時の沖縄県知事であった泉守紀がその演武を見学したことで大いに感服され、県庁主催の演武大会においても、流祖代行として演武をした。1944年には、米軍の伊江島上陸にあたり上地完英も召集令状を受け軍人となったが、上地の空手を優れたものとされ、特別保護としてすぐ上地を本部半島へ宜保正勝中尉が派遣したのであった。終戦後には、父の寛文も帰郷し、名護道場が再開され、上地流の復活とその存在を世に知らしめた後、71歳で父の上地寛文はこよなく惜しまれる存在として生涯の幕を閉じた。
     1949年に伊良波幸徳と友寄隆宏の勧めで宜野湾村(現在の普天間)に移設し、「空手道場」に名称を変更した。上地流は現在、空手が世界的展開となる始めの最高指導者として、軍人の空手指導にもあたった。その通訳や契約の便宜をとったのは、高宮城繁(たかみやぎしげる)という琉球大学で勉学中の門弟だった。
     新たな型も編み出し、上地流を発展させ1967年には日本空手連合会から、1977年には全沖縄空手道連盟より範士十段位が授与された。同年には、「精説 沖縄空手道‐その歴史と技法」が出版され、1991年に空手一筋の生涯に幕を閉じた。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道事典」高宮城 繁 (著), 仲本 政博 (著), 新里 勝彦 (著)
    参考サイト
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  • 9.-上地完英 -

    上地完英
    (うえち かんえい)1911年~1991年 武道家
    本部間切伊豆味村出身で上地流開祖の上地寛文の長子である。1927年に父の上地寛文のもとで宗家2代目として修行を始める。1937年には免許皆伝をし、大阪に道場を開設した。1940には兵庫県に道場を移設し、「上地流空手術研究所」に改名した。三戦を修行者の第一関門として、十三や三十六という型は単調で厳しかったが、数々の武人を生み出した。
     1942年には、名護の宮里に道場を開設し、近隣の青年や生徒たちの稽古を開始して上地流の芽生えとなる。その後、太平洋戦争となり門弟子が減りながらも、当時の沖縄県知事であった泉守紀がその演武を見学したことで大いに感服され、県庁主催の演武大会においても、流祖代行として演武をした。1944年には、米軍の伊江島上陸にあたり上地完英も召集令状を受け軍人となったが、上地の空手を優れたものとされ、特別保護としてすぐ上地を本部半島へ宜保正勝中尉が派遣したのであった。終戦後には、父の寛文も帰郷し、名護道場が再開され、上地流の復活とその存在を世に知らしめた後、71歳で父の上地寛文はこよなく惜しまれる存在として生涯の幕を閉じた。
     1949年に伊良波幸徳と友寄隆宏の勧めで宜野湾村(現在の普天間)に移設し、「空手道場」に名称を変更した。上地流は現在、空手が世界的展開となる始めの最高指導者として、軍人の空手指導にもあたった。その通訳や契約の便宜をとったのは、高宮城繁(たかみやぎしげる)という琉球大学で勉学中の門弟だった。
     新たな型も編み出し、上地流を発展させ1967年には日本空手連合会から、1977年には全沖縄空手道連盟より範士十段位が授与された。同年には、「精説 沖縄空手道‐その歴史と技法」が出版され、1991年に空手一筋の生涯に幕を閉じた。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道事典」高宮城 繁 (著), 仲本 政博 (著), 新里 勝彦 (著)
    参考サイト
     − 
  • 8.-本部朝基 -

    本部朝基
    本部朝基本人の伝記にもあるように、彼が生まれた頃は沖縄の空手はまだ一子相伝の形で門外不出の秘術として秘かに伝えられていた。沖縄空手の源流とも言える「手」は、「首里手」「那覇手」「泊手」の三つの流れがあり、本部家に伝えられていたのは首里手であった。彼は本部家の三男故に当然の如く一子相伝の厳しい掟の下で本部御殿手を父からは教えてもらえなかった。しかし空手家としての天性の才能を持って生まれた朝基は11歳の時、兄・朝勇が父から空手を教わっていることを知り、周囲を説き伏せ、その時すでに首里手の空手家として噂の高い糸洲安恒を空手の家庭教師として招いてもらい、空手の道に入った。

    武術家として天性の才能と闘争心を備え持った彼は、一途に空手の稽古に打ち込み、急速にその才能を開花させていった。あり余る彼の武術の才能とエネルギーは、系統の違う泊手の松茂良興作や松村宗棍など名のある武人を訪ね、教えを受けた。一子相伝の枠外におかれたからこそ、多くの師から教わることができ、結果として本部朝基独自の空手の体系を構築することができたとも言える。

    彼の武術家として際限なく空手に打ち込む情熱は、多くの先生から教わるだけではおさまらず、夜の辻町に出かけ、相手かまわず掛け試し(他流試合・野試合)を挑み、その無謀とも思われる行為をも己の空手の糧としていった彼は多くの空手家の仲間から見れば「異色」であり、異端の武術家として疎外されていた。

    皮肉なことに、彼の枠に収まりきれない実戦主義の闘争本能が、1922年(大正11年)、京都で行われていたボクシング対日本の武道家の興行試合で飛び入り参戦し、ロシア系巨人ボクサーを一撃のもとに倒した。その事が、当時の大衆雑誌『キング』で報道されることにより、それまで本土では幻の武術といわれていた沖縄の空手を一躍、日本全国に知らしめ、普及の引き金をひくことになった。

    日本最強の空手家と言われた本部朝基のエピソードは枚挙にいとまがない程で、又、空手の歴史上最も有名でこれほど多くの人に親しまれている空手家もいない。
    参考資料
     − 「本部朝基と琉球カラテ」(岩井虎伯 著)
     − 「キング」(大日本雄弁講談社 編)
    参考サイト
     − ウィキペディア
      − http://ja.wikipedia.org/wiki/本部朝基
      − http://ja.wikipedia.org/wiki/本部御殿
     − 本部御殿手HP:
      − http://motobu-ryu.org/motobuudundi.aspx
  • 7.-上原清吉-

    上原清吉
    上原清吉は師の本部朝勇と、剛健と言われたその弟・本部朝基からも教えを受けている。上原清吉がその晩年に弟子たちに語ったと言われる「実戦空手を基盤として修錬を積み重ねてきた朝基先生との組手は練習の中でも最も大変だった。」という話は本部朝基の一面を伝えていておもしろい。

    上原清吉は1924年(大正12年)に師の命を受け和歌山県へ渡り、師・朝勇の二男・本部朝茂に師から受け継いだ本部御殿手を伝授している。

    1926年(大正15年)に当時多くの日本人が入植していたフィリピン・ダバオに移住した。そこで太平洋戦争が勃発する1941年(昭和16年)まで道場を開き、空手と琉球古武術を指導していた。また大戦中は軍属として徴用され、参戦した。戦後沖縄に帰郷した清吉は宜野湾市で武術指導を再開し、1961年(昭和36年)に正式に流派名を「本部流」とし、本部流古武術協会を設立した。また比嘉清徳(武芸館)、祖堅方範(小林流松村正統)、島袋善良(小林流聖武館)、兼島信助(渡山流)たちと共に沖縄古武道協会を結成した。

    1982年(昭和57年)、上原清吉は「全沖縄空手古武道連合会」の会長に就任した。当時は沖縄でもまだ本部御殿手は上原門下以外ではほとんど知られていなかった。1984年(昭和59年)、弟子の池田守利のすすめで「日本古武道協会」へ加盟、本土でも本部御殿手を公開、全国への普及を始めた。

    2004年(平成16年)、101歳の天寿を全うした。 本部御殿手は、本部朝基の子息で本部流宗家・本部朝正が継承し、再び本部家に戻った。
    参考資料
     − 
    参考サイト
     − ウィキペディア:
      − http://ja.wikipedia.org/wiki/上原清吉
    本部御殿手 HP:
      − http://motobu-ryu.org/motobuudundi.aspx
  • 6.-上地完文-

    上地寛文
    1897年(明治30年)、20歳にして単身中国へ渡った上地完文は、福建省で南派小林拳法の大家・周子和(シュウシワ)に師事、異国の地で17年に及ぶ唐手一筋の修錬を重ねた。周子和門下生として最終課題の修業は武者修行であり、それは門前市などを訪ね歩き、薬売りの仕事をすることだった。ただその当時の慣習として、薬売りは拳術を極めた武人が漢方薬を学び、行く先々で薬を売って生活費を稼ぎながら武術の修行者として他流試合を歓迎するという暗黙の了解が得られていた。

    道場を離れ、薬売りとして修行の旅に出ることは恐ろしい武術や力を持った命知らずの挑戦者が群雄割拠している見知らぬ町々へ一人で出かけ、他流試合を良しとして、実戦を通して己の実力を計り修行を続けて行くことである。

    上地完文は、周子和門下生として最後の武者修行の課題を終え、1904年(明治37年)、免許皆伝を授かった。完文27歳の時であった。周子和の強い勧めもあって、完文は独立して道場を開き、師の教え通り「不戦こそ最善の勝利」を信条として門下生を指導していた。しかし完文の拳術を広める夢は3年で挫折する。水利権を巡って争った弟子の一人が、殺人事件を起こしてしまったのだ。これに衝撃を受けた完文は道場を閉鎖、沖縄へと戻った。

    その後は、中国福建省での拳友であり、彼の人となりをよく知っている呉賢貴(ゴケンキ、白鶴拳の達人)などに師範学校や警察学校などでの武術指導を強く勧められるが、それらをことごとく辞退し、黙々と農耕生活をしながら17年間に渡って社会から離れ隠棲した。この17年にも及ぶ沈黙は、弟子の犯した殺人事件に対する、完文なりの責任の取り方だったのだろう。

    1924年(大正13年)、和歌山に転出。8年後の1932年(昭和27年)、沖縄県人会に請われ、和歌山市で「パイガイヌーン(半硬)流唐手研究所」を開き初めて流派を名乗り、一般に公開した。異国の地で青春の情熱を注ぎ、唐手の奥義を極め、中国福建省を後にして41年、上地完文63歳にして「半硬流唐手研究所」を「上地流空手研究所」と改名し、上地流の開祖となった。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道辞典」(柏書房)
     − 「沖縄伝統古武道」(文武館)
     − 「空手道と琉球古武道」(村上勝美 著)
    参考サイト
     − ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/船越義珍
  • 5.-船越義珍-

    船越義珍

    生来の病弱な体質を克服すべく、親友の父である唐手家・安里安恒に入門を許され、若干17歳の船越義珍は彼に託された天命とも言える空手の道にその第一歩を印した。正し、この船越義珍17歳の入門説に関しては異論がある。それは師・安里安恒が1879年(明治12年)から1892年(明治25年)までの13年間、東京麹町で最後の琉球国王であった尚泰侯爵の尚家に仕えていた記録があるためだ。(廃藩置県により琉球国王の称号は廃止され、侯爵の称号を与えられた) 船越義珍が安里安恒の唯一の弟子であったことは事実であるが、首里士族の安里安恒が泊士族の船越に首里手を伝授したのは、本来の系統からすれば異例である。正統である息子よりもその友人の、しかも身分の低い船越義珍に唯一の弟子として首里手の奥義を伝授したことは、安里安恒が義珍の人格と才能を高く見込んでいたからに違いない。

    船越義珍の演武義珍は医学の道を志すが、その夢は叶わなかった。当時、医師になる条件の一つが士族の象徴であるカタカシラ(琉球風髷)を切ることが条件だった。少年義珍が意を決して、カタカシラを切ることを父に伺うと、「琉球士族の象徴であるカタカシラを切ることは許さん!!」と一喝され、やむなく教員の道に進むことになった。 船越義珍が沖縄で18歳の時に初めて教育者として教壇にたってから30年、その職を投げ打って東京へ出たのは1922年(大正11年)、54歳の時だった。それから船越義珍は清貧の生活の中で東京を中心に空手の普及発展のために文字通り、徒手空挙の世界で己の全てを投じて尽力した。

    1924年(大正13年)、慶応義塾大学の唐手研究会を足掛かりに弟子も増え、彼らの浄財による「松濤館道場」が東京の豊島区雑司ヶ谷に建設されたのは、船越義珍すでに70歳の時だが、彼にとっては実に大きな、そして「松濤館流空手道」の発祥の源であり、また世界へ波及していく「松濤館流」の震源地の誕生であった。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道辞典」(柏書房)
     − 「沖縄伝統古武道」(文武館)
     − 「空手道と琉球古武道」(村上勝美 著)
    参考サイト
     − ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/船越義珍
  • 4.-知花朝信-

    知花朝信

    知花家は尚質王の第5王子、東風平王子朝春を元祖とする琉球王国の首里士族の一門であり、琉球王国時代には、知花殿内(チバナドゥンチ)と呼ばれた琉球王朝の流れを汲む首里の名家であった。本部御殿手(モトブウドゥンティ)の継承者として名高い本部朝勇や本部サールこと本部朝基は遠戚にあたる。 知花朝信は、1899年(明治32年)、15歳の時に首里手の大家、糸洲安恒に沖縄空手を師事するようになった。弟子たちの言い伝えによれば、知花朝信が糸洲安恒に入門を願い出た時、なかなか入門を許してもらえず三度目にしてやっと許可されたという。それはまだ少年であった知花朝信の空手の修業に対する情熱を試す糸洲安恒の深慮であったとも言われている。

    知花朝信明治以前の琉球王国時代には、首里手は一子相伝の門外不出の秘術として特に位の高い王族に近い士族の名家に代々伝えられていた。明治も後半になって広く一般に普及を始めたが、入門するにはまず入門希望者の人物としてのチェックが行われた。「決して道場外で空手を演武したり、その武術を使用したりしてはならない」等の誓約書を書かせ、尚、保証人までも必要とされていた時代なので知花朝信の三回の入門願いで許可されたことは一般的だったとも考えられる。

    知花朝信は糸洲安恒に入門してから13年間、28歳まで一途に修行に打ち込み、糸洲門下での高弟となった。1918年(大正7年)、34歳となった知花朝信は、長年の夢であった道場を生家のあった首里鳥堀に開設した。1926年(大正15年)、沖縄唐手の共同研究を目的として設立された、沖縄唐手研究倶楽部に本部朝勇、花城長茂、摩文仁賢和たちとその中心的な存在となって参加、活躍した。 1933年(昭和8年)、知花は意を決して自身の空手を小林流と命名し、その開祖となり多くの弟子たちと共にその後の沖縄空手の発展・普及に大きな足跡を残すことになった。戦後間もない、1948年(昭和23年)に沖縄小林流空手道協会を結成し、その初代会長に就任した。

    現在では沖縄小林流空手は、世界にその支部や道場が開設されているが、開祖・知花朝信の直弟子として、宮平勝哉、仲里周五郎、比嘉佑直、名嘉真朝増、島袋勝之、村上勝美、米沢次男などが特に有名である。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道辞典」(柏書房)
     − 「沖縄伝統古武道」(文武館)
     − 「空手道と琉球古武道」(村上勝美 著)
    参考サイト
     − ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/知花朝信 [ch0]
  • 3.-本部朝勇-

    本部朝勇
    朝勇は幼いころから「本部御殿手」の跡継ぎとして、その父・朝真から空手を習っていたが、他にも首里手の大家である糸洲安恒や松村宗棍にも師事したという。廃藩置県後には優れた若手の空手家として名を馳せ、泊手の松茂良興作と手合わせをしたこともあるという。弟である朝基も当初は朝勇にはかなわず、その為に「掛け試し」を行ったとされる。

    1923年ごろ、朝勇は「沖縄唐手研究倶楽部」を設立して会長となる。中心的なスタッフには摩文仁賢和や宮城長順などである。また1924年には「唐手大演武大会」に出演したりもしている。朝勇は蹴り技に優れていたとされる。彼の蹴り技は「本部の足(ひざ)」や「本部御殿の蹴り(きりち)」と讃えられた。 彼の弟子には本部御殿手第12代・上原清吉や息子の本部朝茂などがいる。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道辞典」(柏書房)
     − 「「空手道・古武道基本調査報告書」(沖縄県教育委員会文化課)
     − 「「沖縄伝統古武道」(文武館)
     − 「「本部朝基と琉球カラテ」(岩井 虎伯 著)
     − 「「沖縄朝日新聞」大正14年(1952)6月27日
     − 「「琉球新報」昭和11年(1936)11月9.10.11日
     − 「雑誌「キング」大正14年(1952)9月号
    参考サイト
     − ウィキペディア
      − http://ja.wikipedia.org/wiki/本部朝勇
    本部流HP
      − http://motobu-ryu.org/default.aspx
  • 2.-糸洲安恒-

    糸洲安恒
    糸洲は20歳ごろに松村宗棍に師事していたが、糸洲はなかなか松村に気に入ってもらえず、遂には耐えかねて武士長浜に師事するようになる。長浜の死後は長浜の遺言どおり、再度松村に師事している。このように複数の空手家に師事したこと以外にも、他流派の空手家と交流をもったことで、糸洲は首里手のみならず那覇手、泊手の修業にも励んだ。

    1885年に県庁を退職したあと自宅で空手を教え始め、1905年ごろから県立第一中学校(現県立首里高等学校)にて学校教育における空手の普及に努めている。

    糸洲の功績としては、
    ・沖縄空手の秘密主義から公開主義への提唱
    ・沖縄空手を学校へ導入
    ・沖縄空手10ヶ条提案
    などがある。今でいう空手のカリキュラムを作成し、安全な武道として普及発展させた人物である。また糸洲が考案したとされる型に、
    ・ピンアン初段~五段
    ・ナイファンチ二、三段
    などがあげられる。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道辞典」(柏書房)
     − 「空手道・古武道基本調査報告書」(沖縄県教育委員会文化課)
     − 「沖縄伝統古武道」(文武館)
    参考サイト
     − ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/糸洲安恒
  • 1.佐久川寛賀(唐手佐久川)-

    佐久川寛賀の息子
    旧姓を照屋と言ったが、後に佐久川と改めている。佐久川は中国へ留学し、琉球王府の国学者・琉球国学の教師、八重山在藩奉行の行政官等を務め、北京進貢使として5回も北京へ派遣されている。

    『唐手~トウディー~』佐久川と呼ばれる由来としては、佐久川が広めたとされる北京スタイルを、当時の主流であった南派小林拳と区別するために「唐手」とし、導入物という意味で「唐手佐久川」と呼んだという。

    これにより、首里手は北京スタイルの、那覇手は福建スタイルの影響を受けることとなった。更に、気功や擒拿術を導入したことで、古武道の世界での地位を確立。佐久川の編み出した棒術「佐久川の棍」が有名である。

    ※写真は佐久川寛賀の息子。佐久川寛賀によく似ていると言われる。佐久川寛賀自身の写真は現存していない。
    参考資料
     − 「沖縄空手古武道辞典」(柏書房)
     − 「沖縄空手列伝百人」(外間哲弘 著)
    参考サイト
     − ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/佐久川寛賀


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