上地流が沖縄の空手の流派として他の流派と最も異なる特色は、沖縄古来の首里手、那覇手、泊手の系統とは別に、開祖の上地寛文が20歳の若さで中国に渡り、17年間唐手の本場で虎形拳(こけいけん)の大家・周子和(しゅうしわ)に師事したことである。つまり上地流は開祖自ら中国で唐手を学び、その系統として沖縄で上地流を興したことになる。中国福建省の南派小林拳が源流となる。
1924年(大正13年)、47歳の上地寛文は和歌山県和歌山市に転出、1932年「パイガイヌーン(半硬)流唐手術研究所」を開設、初めて流派を名乗り門戸を一般に開放した。1945年(昭和20年)沖縄に帰った上地完文は名護に上地流の空手道場を開設するが、3年後の1948年(昭和23年)全てを長男の完英に託し没した。享年71歳。
上地流の技法上の特徴としては、開祖・上地完文が中国福建省で学んだ南派小林拳の「龍虎鶴の拳」をその核としている。「龍虎鶴の拳」とは、この三種の動物の攻防の特徴を型の中に活かし、体系化したと言われている。上地流は、その肉体を極限まで鍛え上げ、一撃必殺の攻撃と完璧なまでの防御の体躯に仕上げ「眼精手捷(がんせいしゅしょう)」の言葉通り、無駄な動きや誇張された動作がなく、破壊力と防御、攻防一体となったそのスピーディで流れるような型は心技の一体化を成し得た美しさを伴っており、見る人々に感動を与える。
目的を持って鍛えられた人間の体は、男女問わず美の世界へ至るものだが、武術の武器そのものになるべく鍛え抜かれた体は、司法の場では凶器として解される。上地流に見られる、特に手足の指先を鍛え抜いた攻撃は、対峙する相手の深部までも到達するような他の流派には見られない極めて強力な一撃必殺の破壊力を秘めている。