糸洲は20歳ごろに松村宗棍に師事していたが、糸洲はなかなか松村に気に入ってもらえず、遂には耐えかねて武士長浜に師事するようになる。長浜の死後は長浜の遺言どおり、再度松村に師事している。このように複数の空手家に師事したこと以外にも、他流派の空手家と交流をもったことで、糸洲は首里手のみならず那覇手、泊手の修業にも励んだ。
1885年に県庁を退職したあと自宅で空手を教え始め、1905年ごろから県立第一中学校(現県立首里高等学校)にて学校教育における空手の普及に努めている。
糸洲の功績としては、
・沖縄空手の秘密主義から公開主義への提唱
・沖縄空手を学校へ導入
・沖縄空手10ヶ条提案
などがある。今でいう空手のカリキュラムを作成し、安全な武道として普及発展させた人物である。また糸洲が考案したとされる型に、
・ピンアン初段~五段
・ナイファンチ二、三段
などがあげられる。
参考資料
− 「沖縄空手古武道辞典」(柏書房)
− 「空手道・古武道基本調査報告書」(沖縄県教育委員会文化課)
− 「沖縄伝統古武道」(文武館)
参考サイト
− ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/糸洲安恒