湖城流の歴史は古く、1392年に「久米三十六姓」が来琉し那覇の久米村に移住した時に遡る。湖城流の教祖は「久米三十六姓」の出身地である中国福建省泉洲南安(現・泉洲市)の生まれで、名を蔡襄(さいじょう)という。
蔡一族は久米三十六姓の一団と共に久米村に住み、その分家の一つが湖城家の始まりであり那覇久米村の士族である。一族は国師、三司官、大通事などの琉球王府の高官を歴任し長年琉球王府を支えた。湖城流は湖城親方(1656~1737)を流祖とし、士族・湖城家に伝わった門外不出の空手の流派である。湖城流の技法に特徴としては打撃による連続攻撃の後、取手{関節技・投げ技}などで勝負を決めることにある。
初代は「生まれ武士」の異名をとる湖城親雲上(こじょうぺーちん)。二代目は「聖人タンメー(翁)」と呼ばれた蔡昌偉(さいしょうい)。三代目の湖城以正(いせい)は“名人”と呼ばれ、16歳の時、従兄の大禎(たいてい)と共に中国に渡り中国の武官・イーファーに師事、その師範代を務めた。
1879年の琉球処分の頃、親清派であった以正は琉球王府に保護請願使として中国・清に渡ったが既に明は衰退し、清の時代に変わる動乱期であった。湖城以正は琉球に帰国することなく、福洲城内の「琉球館」近くに邸宅を買いとり唐手道場を開設した。余談ではあるが上地流の開祖・上地完文も中国に渡って初めて師事した空手の師は湖城以正であった。従兄の湖城大禎も「豪拳タンメー」と呼ばれ、武術・槍術・儒学を修めた武人であり東恩納寛量との「三戦論争」は有名である。また船越義珍が最初に唐手の伝授を受けたのも湖城大禎だと言われている。
四代目・湖城嘉宝(かほう){1849~1925}
五代目・湖城再境(さいきょう){1873~1941}
六代目・湖城嘉富(かふう 又は よしとみ){1909~1996}
七代目・湖城繁(しげる){1934~1999?}
歴代の湖城流はいずれ劣らぬ歴史に武名を轟かした武術の系統であるが、七代目の湖城繁が那覇市壺屋に開設していた道場を体調不良のために1975年に閉鎖、その後沖縄には湖城流の道場は登録されていない。沖縄における湖城流の継承者が不明の為、湖城流は「幻の空手」として今なお惜しまれ続けている。しかし現在湖城流を受け継いでいる空手道場は沖縄にはないものの、湖城嘉富の高弟・林伸伍が鳥取県に開いた道場がある。
湖城流の型は6つあるとされ、「天」「空」「地」と命名され、それぞれ4つの構えがありその12種の構えの名称は12支に分けられている。
参考資料
− 「沖縄空手古武道事典」
− 「精説 沖縄空手道」
− 「唐手術」
− 「沖縄空手列伝百人」
参考サイト
− ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/湖城流