1922年(大正11年)、沖縄尚武会会長であった富名腰義珍(後に船越に改名)が東京で開かれた第一回体育博覧会に招かれ、沖縄出身の一つ橋大学学生の儀間真謹氏と演武を行ったのが沖縄空手の本土へ初めての登場だったという。一方、沖縄空手を本土へ広めたもう一人の雄、本部朝基も当時大阪に在住していた。
沖縄で本部サールと呼ばれていた本部御殿手の使い手、本部朝基は1922年(大正11年)11月、京都で催されていた、飛び入り歓迎の演武大会に出場し、大観衆の見守る中、ボクシング世界チャンピオンとして一座のスターを張っていたロシア系大男のジョージを一撃で倒し沖縄空手の威力を見せつけた。 それまで柔道家の中でも沖縄空手はまだ未知の武術で「沖縄には、カラテという、すごい破壊力をもった武術があるらしい」という程の空手の認知度だった。本部朝基の見せた沖縄空手の破壊力の凄さは波紋を広げ、雑誌で報道されることにより、沖縄空手を本土の人々に知らしめる大きな役割を担ったことになる。
東京での船越義珍(旧・富名腰義珍)の初めての演武は、それ程注目もされず報道されることもなかった。
当時、沖縄出身で松村宗棍の弟子でもあった男爵・伊江朝直氏が、講道館の嘉納活五郎に依頼して演武会を再度、東京女子師範大学講堂で催した。集まった関係者は、嘉納活五郎をはじめ、永岡(十段)、西郷四郎(六段・後の姿三四郎のモデル)、その他、軍人、役人、警察関係者など、総勢300人が集まった。
船越義珍を通して沖縄空手を知った慶応義塾大学ドイツ語の粕谷真洋教授は船越門下生となり、大正13年10月15日、船越義珍を正式に学校の空手師範として迎え、日本で初めての大学における唐手研究会を創設したことになっている。事実はそれに先駆け、前記のように沖縄では糸洲安恒により、1901年(明治34年)には、首里尋常小学校で体育の授業に取り入れ、1905年(明治38年)には、沖縄県師範学校をはじめ多くの学校で空手部創設が行われている。
慶応義塾大学の唐手研究会創設に始まり、翌年は東京帝国大学(現・東京大学)、そして第一高等中学校、学習院大学、東京商科大学(現・一橋大学)、拓植大学、早稲田大学、法政大学と大学を中心に沖縄空手の普及は勢いを増していった。 その当時の沖縄唐手の指導者としては、船越義珍を筆頭に、大阪から東京へ移った本部朝基も大いに活躍した。その他に琉球最後の王尚泰が華族になり、東京在住を命じられて、台東区に住むようになって、その尚家に務めるようになった沖縄出身の空手家も多かった。