「手(てぃ)は沖縄独自の文化である」説
最も有力な根拠となる背景には、古く琉球の歴史の中で、「城時代」と呼ばれている頃から戦国時代である「三山時代」においての歴史的背景である。当時の長い戦乱の時代には、それぞれの戦いの中で武術や武器が生み出されるのは必然的である。特に琉球王国(現・沖縄県)は他の大陸まで1千キロ以上も離れている南海の孤島という地理的条件のもと、尚時代考証としては、いずれの民族も、1千キロも離れた土地を往来する航海術は持っていなかっただろうということである。
また群雄割拠していた「城時代」に始まり「三山時代」の末期頃の首里王府や貴族武士の中に、手(てぃ)と呼ばれる現在の沖縄空手の源流が発生していたものと思われる。しかし1800年代まで、「一子相伝・門外不出」の秘術として継承され続けたこの「手」は、ほとんど社会の表には姿を現していないのが事実である。その秘密裏に伝えられていた「手」が、やがて首里手、那覇手、泊手と呼ばれる三つの流派に分かれ、これが琉球独自の空手の原型だといわれている。
歴史的背景を考察の範ちゅうに入れて検証するならば、やはりその国独自の武術として、日本には「剣道」や「柔術」があり、韓国には「テコンドー」、中国には「拳法」がある。そのことからしても琉球独自の武術として、空手が琉球王国内で自然発生したとしても納得のいくことだろう。
「手(てぃ)が中国の少林寺拳法などと融合して発展をとげた」説
沖縄で生まれた「手」が中国の武術と融合して出来たものが、現在の沖縄空手の原型という説に関しては、かなり信憑性が高いといわれている。1372年に中山王・察度は中国と冊封と進貢をベースにした正式な国交を樹立し、琉球王朝の大交易時代を迎える。この交易は、日本、韓国、中国がそれぞれ鎖国をしている時代において、目をみはるような貿易国家としての活躍をした。その交易回数はのべ400回前後と言われ、徳川家康が行った「朱印船貿易」が20回前後であったのに比べ、その航跡の大きさに克目せざるを得ない。
その時すでに300人前後の乗員を有したと言われている交易船の大きさから推察しても、琉球と中国間で行き来したであろう膨大な物資、人、文化などは両国に大きな影響を与えたことは明らかである。中国は明の時代である。北京は琉球に比べはるかに、豊かな文化国家であった。北京において、琉球への冊封使に任命された中国の高官は、さぞや身の不運を嘆いたことだろうと言われている。あの華やかな紫禁城から、それこそ南海の貧しい孤島の琉球への使いである。
エンジンのない帆船は、春から夏にかけてモンスーンの南風に乗ってはるか琉球王国に渡り、風が変わる冬の北風・ミーニシに乗って帰っ行く。約5~6ヶ月の長旅であり、また無事に帰れる保証すらない危険極まりない旅である。大都会北京の王宮勤めの高官・冊封使は、小さな琉球王国での生活を考え、お抱えの料理人集団や音楽、舞踏の集団までも伴って来琉した。
その冊封使の集団が琉球王国に滞在している間に行われる饗宴での音楽や舞踏、そして料理などがその後の琉球、沖縄文化の中に深く浸透して根を張っていったことは当然のことである。現在に至っても、そのエキスを濃密に残していることは衆目の認めるところである。
その交易時代に中国の冊封使集団が与えた、琉球・沖縄文化へのインパクトの中に、唐手(空手)が無かったとはむしろ考え難い。その当時、中国は人類史上稀にみる大河の流れのような、大きく長い戦乱の時代を淘汰してきた国である。
冊封使一行の中に、少林寺拳法のように洗練された武術を身につけた者が冊封使の警護として、あるいは、演舞者として同行していたことだろう。その中国拳法と琉球古来の「手」が接点を持ち、融合することによって現在の沖縄空手に発展して来たというのがこの説である。現在の沖縄空手の各流派の型を見ると、その名称に中国語が多いのも、この説の証明の一つといえるのではないだろうか。
「中国伝来の武術である」説
上記の2つの説を考慮してみると、全くの中国からの伝来であるという説がさして重要視されないのもうなずける。
参考資料
− 「沖縄空手古武道事典」(柏書房)
− 「沖縄空手・古武道グラフ」(守礼堂)
参考サイト
− ウィキペディア:http://ja.wikipedia.org/wiki/空手道