世界を治めていたイギリスをはじめとする西欧列強に、日本、アメリカ、ドイツといった新興勢力の台頭によって生じた第二次世界大戦。日本は東アジア・東南アジアを勢力圏とする壮大な大東亜共栄圏の建設を目指し、西欧列強の植民地であった南洋諸島を次々と占領をしていきました。しかし戦争が長引き、物資に勝る連合軍に日本軍は敗退を余儀なくされ、遂には日本本土が決戦の場とされました。地理的に日本本土の最後の砦であった沖縄本島は、アメリカ軍と日本軍の死力を尽くした戦闘が展開されました。その戦禍は住民を数多く巻き込み、肉親同士が殺し合う「集団死」や、学徒隊「ひめゆり部隊」、「鉄血勤皇隊」などの悲劇を生み落としました。
沖縄の、そして日本の歴史の大きな分岐店となった「沖縄戦」の記憶を、アメリカ軍が撮影した貴重なフィルムで振り返ります。
慰霊の日〜沖縄戦の記憶〜
6月23日は慰霊の日。沖縄戦最後の激戦地となった糸満市摩文仁にある平和祈念公園では毎年多くの人が訪れ、故人を偲び平和への祈りを捧げます。(2007年6月23日)
カラーで見る太平洋戦争
日本とアメリカを始めとする連合国がアジア・太平洋を主戦場にして争った太平洋戦争。開戦当初は快進撃を続けた日本でしたが、ミッドウェー海戦の敗北を機に、南洋諸島の覇権をめぐって両軍の壮絶な死闘が繰り広げられました。
1941年の日本軍マレー北部に上陸から、1945年の終戦までの4年間、南洋諸島で繰り広げられた激戦の様子を、アメリカ軍が撮影した貴重なカラー映像で振り返ります。
太平洋戦争の経緯
1941年12月8日~1945年9月2日の降伏調印までの期間、大日本帝国vsアメリカ・イギリス・オランダ連合軍の間で行われた太平洋戦争。その原因は1937年、中国で起こった盧溝橋事件だったのです・・・
開戦と転機
日本軍はハワイオアフ島の真珠湾とイギリスの植民地マレー半島のコタバルに奇襲攻撃をかけ、太平洋戦争開戦ののろしがあがりました。日本軍優勢のまま迎えたミッドウェー海戦で日本軍に転機が訪れます・・・
沖縄戦、そして敗北へ・・・
ミッドウェー海戦以来、戦局の主導権を連合国に奪われた日本は、占領下に置いていた太平洋の島々から撤退を余儀なくされました。着実に日本本土に近づいてくる連合国軍。日本本土防衛の最後の要が沖縄だったのです。
映像で見る沖縄戦
人類史に残る凄惨な地上戦があった沖縄。
第二次世界大戦と云う、国の総体を懸けた総力戦は、大きすぎる犠牲を払い、日本の敗戦で終結しました。沖縄の、そして日本の歴史の分岐点となった沖縄戦をアメリカ軍が撮影した貴重な映像等で振り返ります。
1944年10月10日の米軍による空襲から1945年9月7日の降伏調印式までの約1年の沖縄戦の流れと、その後の沖縄の捕虜収容所生活の流れを3本の動画で紹介します。
映像で見る沖縄戦vol.1 前哨戦
1945年3月下旬から8月まで沖縄は戦禍に包まれました。しかし、それ以前の1944年10月10日、沖縄戦の前哨戦 としてアメリカ軍による大規模な空襲がありました。
映像で見る沖縄戦vol.2 米軍沖縄上陸
1945年3月26日、アメリカ軍は沖縄本島に先駆け、慶良間諸島に上陸。4月1日、沖縄本島の北谷・読谷にも上陸し、本格的地上戦が始まりました。
映像で見る沖縄戦vol.3 捕虜収容所
9月7日の完全な沖縄戦終戦後、生き残った住民や兵士は捕虜収容所に集められました。全てを奪われた沖縄はここから再生の道を切り開くことになるのです。
戦後60年経った今でも沖縄戦で犠牲になられた御霊は戦場の中を彷徨っています。私達が出来ることは、二度と沖縄を戦場にしないという誓いをすること。沖縄戦祈念日を紹介します。
沖縄戦祈念日
八重山戦マラリア犠牲者慰霊祭
知られざるもうひとつの沖縄戦、「八重山戦争マラリア」。地上戦も無く、空爆の被害も少なかった八重山で、何故、約4千人もの犠牲者が出てしまったのでしょうか?
沖縄戦年表
沖縄戦前夜の沖縄守備軍第32軍創設から沖縄戦終結の降伏調印式まで年表で振り返ります。
■1945年 | |
3月22日 | 南西諸島防衛のため第32軍創設。沖縄本島に配備された正規軍の総兵力は約86,400人。 |
8月22日 | 長崎へ向かう途中の学童疎開船対馬丸、悪石島近くで米潜水艦(ボーフィン号)の魚雷攻撃を受け、沈没。その時間わずか約10分であったという。乗客1,661人の内1,484人の命が奪われた。 |
10月10日 | 沖縄各地 に大規模な空襲が行われる。特に飛行場、港があった那覇市の被害は甚大で、5回の空襲により市街地の9割と約260人の命が奪われた。この空襲により沖縄全域の犠牲者は約1,500人。沖縄が戦場になった瞬間。 |
12月5日 | 沖縄本島の守備軍第32軍の精鋭部隊・第9師団(武部隊)をフィリピンのレイテ島決戦に備え移動した第10軍の補充をするため台湾に移動。沖縄の守備部隊の戦力が3分の2になる。 |
■1945年 | |
3月23日 | 米上陸部隊、沖縄諸島に攻撃(空襲・艦砲射撃)を開始する。 |
3月26日 | 米軍、慶良間諸島に上陸。 |
3月31日 | 米軍、慶良間諸島を占領。沖縄本島上陸作戦の補給基地とする。渡嘉敷島で住民による凄惨な「集団自決(死)」が起こる。渡嘉敷島の戦没者368人の内、「集団自決」による犠牲者は329人にのぼった。この「集団自決」こそ沖縄戦を他の戦争と明確に差異化するものであり、日本が行った皇民化の究極の暗黒面であった。 |
4月1日 | 米軍、沖縄本島の北谷・嘉手納・読谷に上陸。日本軍は主力部隊の武部隊を失ったため持久戦へと戦略を変更。約6万人の米軍は無血上陸を果たし、その日の内に、読谷の北飛行場、嘉手納の中飛行場を占拠する。 |
4月3日 | 読谷村のチビチリガマで「集団自決(死)」発生。85名が自決。その内の6割が18歳以下の子供だった。チビチリガマでの「集団自決」の真相が明らかになったのが1983年のこと。終戦から38年という年月が、その闇の深さを物語っている。 |
4月5日 | 北部守備軍(宇土部隊)、戦線から後退。米軍、本島中部石川を占拠し、沖縄本島を南北に分断。 |
4月7日 | 大本営は、沖縄支援のため世界最大を誇った戦艦「大和」を中心とした海上特攻作戦(菊水作戦)を敢行するが、「大和」は沖縄へ向かう途中で米軍の集中砲火を浴び、鹿児島県坊津沖で撃沈される。 |
4月8日 | 第32軍の司令部がある首里の防衛線として、頑強な陣地が構えられた沖縄中部宜野湾の嘉数高地で、日米の激しい攻防戦が展開される。 |
4月10日 | 米軍、津堅島を占領。 |
4月12日 | 日本軍、総攻撃失敗。 |
4月16日 | 米軍、伊江島に上陸。当時、伊江島には東洋一と言われた飛行場があったため、米軍占領の21日まで激しい戦闘が行われた。犠牲者4,706人、その内地元の住人は約1,500人にのぼった。 |
4月21日 | 米軍、伊江島を占領。 |
4月24日 | 嘉数高地、陥落。実に16日に渡った攻防戦であった。 |
4月26日 | 嘉数高地と首里の司令部との間に位置する前田高地での戦闘始まる |
5月6日 | 前田高地、陥落。太平洋戦争最大規模の砲爆撃が集中した、宜野湾から浦添の約10キロの中部戦線は、米軍の戦死者約20,600人、そして日本軍に至っては約64,000人を出した、まさに両軍死力を尽くした戦いであったが、住民の被害も忘れてはならない。激戦地となった嘉数、前田、西原では約半数の住民が犠牲になり、一家全滅も3割を超えた。 |
5月12日 | 最後の首里防衛線である那覇市郊外にある「安里52高地(シュガーローフヒル)」で戦闘始まる。地形を巧みに利用した日本軍と、圧倒的な兵力の米軍の攻防戦は、ここでも熾烈を極めた。米軍は死者2,662人、1,289人の極度の精神疲労者を出すが、18日に制圧。米軍、首里に向けて総攻撃を開始する。 |
5月22日 | 第32軍司令部、南部撤退。持久戦続行の作戦方針を決定する。本土決戦に備え、沖縄戦を引き伸ばす、まさに「捨て石」作戦であった。 |
5月22日 | 米軍、那覇市を占拠。 |
5月25日 | 後に「ひめゆり部隊」と呼ばれる学徒看護隊が配属されていた南風原陸軍病院に南部撤退命令が下される。 |
5月27日 | 第32軍司令部、残存兵約30,000人の南部撤退を開始する。 |
5月31日 | 首里、陥落。第32軍司令部、沖縄本島の最南端、摩文仁の自然壕の中に撤退。徹底した持久戦に入る。既に南部一帯には多くの住民が避難しており、そこに南下して来た残存兵、軍と共に移動して来た住民とが入り混じって、沖縄最南端の喜屋武岬に追い込まれていった。未曾有の悲劇、南部戦線の始まりである。 |
6月9日 | 米軍、粟国島を占領。 |
6月11日 | 海軍主力玉砕。 |
6月13日 | 大田実少将率いる海軍部隊、小禄の司令部で全滅する。大田少将が最後に海軍次官宛に打った「沖縄県民斯く戦えリ」の電報は、沖縄県民に対する国の配慮を訴えたもので、玉砕の電報では極めて異例な電文として有名。 |
6月17日 | 米軍、激戦の末、南部戦線の防衛線を突破する。これが日米最後の戦闘であった。米軍の沖縄作戦のトップ、バックナー軍司令官、牛島軍司令官に降伏勧告。牛島司令官それを黙殺する。 |
6月18日 | 米軍第司令官バックナー中将、糸満市真栄里で日本軍の砲撃により戦死。 |
6月19日 | 第32軍牛島司令官は、「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し、最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」と最後の命令を出し、指揮を放棄する。日本軍の組織的抵抗の終結。ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊などの学徒隊に解散命令。ひめゆり部隊がいた壕内に米軍のガス弾が投げ込まれ、教師・生徒40名が無残な最期を遂げる。 |
6月23日 | 牛島軍司令官、長参謀、摩文仁の司令部壕にて自決(22日という説も)。事実上、日本軍組織的抵抗の終了。 |
6月25日 | 大本営、沖縄作戦終結発表。 |
6月27日 | 久米島で、海軍守備隊による連続住民虐殺事件おこる。8月18日まで5家族20人がスパイの疑いで処刑される。 |
6月30日 | 米軍、掃討戦を終了。 |
7月2日 | 米軍、沖縄作戦終了を宣言。しかし、日本が降伏した8月15日以降も南部でゲリラと化した日本兵と散発的な戦闘が続く。 |
9月7日 | 南西諸島の沖縄守備軍の残存部隊が降伏文書に調印。 |
沖縄の戦跡・慰霊塔
沖縄各地に今も残る沖縄戦の戦跡や、慰霊塔を動画で紹介します。
平和祈念公園(糸満市)
沖縄戦最後の激戦地であった摩文仁(まぶに)につくられた国定公園。敷地内には1府30県、10団体の慰霊塔・碑をはじめ平和の礎、沖縄県立平和祈念資料館、平和祈念堂、国立沖縄戦没者墓苑などが配置されています。
平和祈念堂(糸満市)
沖縄平和祈念堂は、平和願望、戦没者追悼の象徴として1978年に建設されました。七つの海と合掌の形をした正7面体の塔内に、県出身の山田眞山画伯が18年の歳月をかけて完成させた平和祈念像が安置されています。
平和の礎(イシジ/糸満市)
平和記念公園内にある平和の礎。沖縄戦集結50年周年の1995(平成8)年に建てられました。沖縄戦で犠牲となった沖縄県民、国内外すべての人々の氏名が刻まれています。
ひめゆりの塔(糸満市)
沖縄県師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校の生徒、職員210人を祀った慰霊塔です。併設の資料館には学徒隊の遺品や資料が展示されています。
師範健児の塔(糸満市)
沖縄師範学校男子部の生徒によって編成された鉄血勤皇隊を祀った碑です。鉄血勤皇隊が南部の断崖絶壁に追い詰められ最期を遂げたところで、生徒・職員307名を合祀しています。
旧海軍司令部壕(豊見城市)
沖縄戦において、実際に日本海軍が指令部として使用していた壕が当時のままの状態で保存されています。壕内には司令官室や作戦室、通信室が当時のままに残っています。
一中健児の塔(那覇市)
那覇市首里にある一中健児の塔。沖縄戦で鉄血勤皇隊として戦った県立一中(現在の首里高校)の生徒・職員287人を祀った慰霊碑です。鉄血勤皇隊は、陣地構築、通信、伝令、弾薬や食料運搬に働いていました。
嘉数高台公園(宜野湾市)
海抜92mの高台で、かつては日米両軍が攻防を繰り返した激戦地でした。当時の日本軍が使用したトーチカも保存されています。展望台からは普天間基地も見渡すことができ、現在の沖縄の実情を見ることが出来ます。
安保の丘(嘉手納町)
安保の丘の上からは極東最大の米軍基地「KADENA」を見渡すことができます。
戦闘機の音を聞いて、金網に触れ沖縄の基地の現状を体で感じることが出来ます