野原耕栄 プロフィール
沖縄県出身。首里手、少林流範士九段。
1982年沖縄空手道小林流竜球館空手古武道連盟。会長
1985年全琉実践空手道協会設立。会長
2007年8月号「月刊空手道」(福昌道) Vol.443に『さまよえる「手」』の題名、副題『「手」を知らずに「空手」を語ることなかれ』で4年間連載。
2007年11月 「沖縄伝統空手「手」(Tiy)の変容」(球陽出版)を出版。
2009年早稲田大学博士課程「スポーツ人類学科」入学
2013年早稲田大学スポーツ人類学博士課程満期退学。
2016年「ウチナーディ協会」設立。会長
2007年8月号「月刊空手道」(福昌道)Vol.443に『さまよえる「手」』の題名、副題『「手」を知らずに「空手」を語ることなかれ』で4年間連載。
2009年早稲田大学博士課程「スポーツ人類学科」入学
2013年早稲田大学スポーツ人類学博士課程満期退学
また、支部道場数は40です。
野原拝
『さまよえる「手」(TIY)』「手・TIYを知らずして空手を語ることなかれ」』の連載について
沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟会長
全流実践空手道協会会長
沖縄伝統空手「ウチナーディ協会」理事長
範士九段 野原耕栄
空手の起源は「沖縄の手・ウチナーディ」である。それを証明するのが沖縄に古くから伝わる古謡を集めた本で琉球の古事記又は万葉集とも言われる沖縄最古の歌謡集『おもろさうし』である。首里王府が1531年から1623年に亘って編纂した物である。『おもろさうし』第1巻(1531年)収録したものの中に琉球のグスク時代の戦いのおもろの一遍がある。「又組む手 寄るい倒ちへ あたす 寄い倒ちへ」これは「組み手により、手と足を使い相手を倒して」という意味である。このとこは正に素手により戦うときは「組み手」という表現をしていることがわかる。この「おもろ」は古来より「手」(TIY)と「足」を使い、それでもって「組み手」を行っていた事の証明であり、いわゆる琉球(沖縄)には古来より戦いの武術として「手(TIY)が存在していた事を証する貴重な「おもろ」である。琉球のグスク時代(13世紀から15世紀)に於いて、グスク同士の戦いに於いて、手の拳と足による蹴りによって手と足を武器として琉球に於いては古来より実践で使われ広く公に認知されていたことをこの歌は如実に物語っているのである。
この「おもろ」に表現されたものがいわゆる「沖縄手・ウチナーディ」なのである。これがいわゆる首里手の源流である。
これに対し、中国拳法の書物である『武備誌』は1621年茅元儀によって出版された。この中国拳法は19世紀頃から沖縄で唐(中国)から来た手という意味で「唐手・トゥーディ」と呼ばれるようになり、この唐手が後に那覇手の源流となった。また、泊手と言うのがあるがこれは、首里手と那覇手の折衷である。首里手は後に少林流系となり那覇手は後に剛柔流となった。
那覇手の呼称は後に「剛柔流」という呼び名になったが、その剛柔流の名称はこの『武備誌』から抜粋されたものと言われている。これは中国(唐)から伝わった手として「唐手、トウディ」と称して、「沖縄手」と区別したのである。従って、「おもろ」で言われる手を「沖縄手・ウチナーディ」と呼び、『武備誌』による中国拳法を「唐手・トゥーディ」と呼んで区別しているのである。
さて、「空手」の用語は1922年沖縄の首里手の空手家、船越義珍が東京に「手」を伝播した以後からである。「空手」の用語を初めて使用したのは1908年、首里手の花城長茂である。次に同じく首里手の糸洲安恒が1908年に使用している。そして、「空手」の用語が一般化したのが、1930年に慶應大学唐手研究会から発行された「拳」という機関誌によってである。
従って空手の歴史は16世紀の「沖縄手・ウチナーディ」19世紀の「唐手・トウーディ」そして20世紀の「空手」の時代と変遷していったのである。
このことからして、空手の源流は「沖縄手・ウチナーディ」であり空手は沖縄が発祥の地であり、空手は沖縄から来たのである。
空手の流派の祖が全て沖縄出身であることが、その全てを物語っているのである。
これから始まる『さまよえる「手(TIY)」』は野原耕栄が『月刊空手道』に2007年8月から4年半に渡り掲載した空手の歴史についての論文を核として編集・掲載するものである。
従って、「沖縄手・ウチナーディ」が13世紀頃から沖縄独自の武術として発達し、中国拳法「唐手・トゥーディ」が17世紀以降に琉球に伝来したものであり、「沖縄て・ウチナーディ」が「唐手・トゥーディ」よりも数百年も前から存在していたことがわかる。そして、この「沖縄手・ウチナーディ」が日本全土(ヤマト)に伝播して「空手」と称されるようになったのであり、よって、空手の起源は「沖縄手・ウチナーディ」なのである。