富名腰義珍の意に反する
大濱信泉が、早稲田大学の体育会空手部長に就任したのは、必ずしも偶然ではない。大濱が通っていた沖縄師範学校では、当時唐手が体育の授業科目として組まれており、彼はこの師範学校において、退学するまでの約3年間、唐手の基本的な突き蹴りや型の幾つかは既に習得していたのである。従って、大濱信泉にとって空手が全くの素人という訳ではなく、むしろ師範学校の長老空手家の直接の指導を受けた、貴重な経験者だったのである。
だからこそ、大濱はこのように富名腰義珍の意に反するような論文を堂々と発表することができたのである。
その論文は次のように続く。「……このことは野球の如く本来遊戯的なるものの場合には、明白であるが、本来武術的なるものが体育の手段に供せらるる場合には、この辺の区別がたたず、誤解を生じることが少なくない。又、往々にして武術を修むる者が、その力を頼り我意を押し通し、無理を強ふるの武器として、鍛へし力を行使する例をさえ聞くことがある。かくの如きは、武術を暴力化するものであって、体育の冒涜の甚だしきものと謂わねばならぬ。この点は空手を修むる者に於いても、戒心の上にも戒心を重ねべきもとだと思う。」と述べている。前近代社会においては、武術はもちろん戦いの道具として相手を倒すために鍛錬された。つまり、唐手の場合であれば「一撃必殺」がその目的であった。しかし、法治国家となり徳知社会となった現代において今や武術はその当初の目的を失ったものになっており、さらに武術としての実用的価値が失われ心身鍛錬を目的とする体育的方法による文化としての価値しか残っていないのではないのか、と主張したのである。しかも、そのような現状を認識しないで、武術力を使って我意を無理強いしようとする者がいるが、これは武術を暴力化するもので、体育を冒涜するものだと厳しく断じたのである。大濱の主張は基本的にはその通りである。法治国家においては、人間の争い事は武力で解決するのではなく、法律で解決されなければならない。いくら正しいことでも武力(武術)を行使して目的を実現することは、原則として許されないのである。
大濱は「空手の試合に就いて」も次のように述べている。
「最後に空手のスポーツ化につき卑見の一端を述べて同好の士の一考を煩わしたいことがある。或いはこれは、門外漢の暴論に過ぎぬかも知れぬが、門外漢なればこそ暴論を試みる特権が与えられて然るべきものであろう。凡そスポーツは、それが遊戯的ものの場合は素よりのことだが、本来武術的のものでも、試合に依って勝敗を決することを常道としている。しかし、私の知る範囲に於いては、空手には殆んど試合が行われていない様である。
空手は空手空挙の術であると同時に常に相手を仮想した上で、型に嵌めて技を演ずるに過ぎない所の謂わば独りの空芸でもある。それが空手の空手たる所以であり、又長所であるかも知れぬが、しかしそこに、底知れぬもの足りなさが感じられてならない。」と述べて、型を中心にした空手指導の在り方や空手の競技化を禁止する指導者の考え方について批判を加えている。そして、次のように続いていく。
「私の憶測するところによれば、この点において、空手はスポーツとしての重要要素の一つを欠いているのではないかとの感さえがある。今空手の術それ自体としての実用的価値を、又現代生活に於いて左程重要なものでないことは前述の通りだが、取除いて考えて見よ。後に残るものは、結局体育としての価値のみであろう。もしそうだとすれば、空手は体操と相去ることの左程遠からぬものになっていまいやしないか。元来スポーツには体育としての価値以外に、精神的の要素が伴い、しかもしれが相当重大な役割を演ずべきものとされている。闘争欲望、征服欲、又は優越感等の満足感が即ちそれである。
しかし、空手に於けるが如く、仮令それが妙諦を極むる闘争手段であり、征服技術であろうとも仮空を相手に型を繰返すだけでは、これらの諸欲望の満足は到底望まれない。
仮に満足感があるとしても、それは単に仮想的のもの及至は観念的のものであって、決して実質的の現実的の満足感ではあり得ない。
私は、この空虚感が空手のスポーツ化の前途に横たわる障碍となりはしないかと、ひそかに憂うるものである。私としても、空手のすべての術や技が試合化され得るものとは思わない。しかし或る範囲内に於いては、試合に仕組むことの可能なるを信じ、又その工夫が必要であることを痛感するものである。仄聞する処によれば既にある方面に於いてはこの種の試みが為されつつあるとのことであるが、空手の前途の為に是非研究を要すべき重大問題だと思う。或いはこの提案を、空手を邪道に導く異端と排斥する人があるかも知れぬが、しかし目的の上に既に進化を認むる以上、方法の上に変遷があっても寧ろそれは当然のことでなければならぬ。伝統を株守し、昔ながらの形に於いて之を伝うることをのみが、必ずしも正統派の任務だと断ずべきものではないと思う。」と論じたのである。
この大濱信泉の論文は、富名腰義珍をはじめとする多くの型中心の沖縄空手の指導者にとって痛烈な一撃となったことは間違いない。と同時に、競技化を目ざす若い学生たちにとっては、力強い励みとなったことであった。この論文を機に各大学における空手の試合化が進むことになり、試合防具
開発がますます促進され、また防具なしの競技方法も模索され始めることになる。
その後、大濱は日本の空手界を大きく動かしていくキーパーソンとなっていく。彼は、1954年(昭和29年)には第六代早稲田大学総長に就任し、総長を3期12年務めた。その間も同空手部名誉部長を務め学生空手の父・大濱とまで言われるようになる。
学生空手は昭和初期より各学校に空手部が創設され、戦後急激にその部員数も増えたが、流派系列毎に集約されていて、その統一はとてもおぼつかなかった。ところが、昭和36年学生空手部が頻に暴力事件を起こし、新聞に報道されるや、文部省は「学校体育に関連する諸問題についての改善」の項に「大学空手部の管理指導の適正化」をテーマに、大濱を座長として、大学空手部長およびOBその他関係者を招集して討議を行った。そして、学生空手の管理体制として全日本学生空手道連盟を発足させ、流派ごとに集約されていた学生空手の組織を学校の教育体制を基とした、大学を単位とした全国組織に再編成させるかたわら、試合制度を採用し、スポーツとしての空手の一面を取り上げて、第一回全日本学生空手選手権大会へと踏み切った。その生みの親は、大濱であった。1962年(昭和37年)に全日本学生空手道連盟会長に就任したのである。
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