空手

第20回さまよえる「手」(Tiy)

2019.10.01

2019.11.11

 1922年沖縄から東京に紹介された「唐手術」は、日本の大学を中心にして全国に普及することとなる。唐手術を日本本土に伝承するために本部朝基、平信賢、屋比久猛伝、宮城長順、摩文仁賢和など当時の沖縄を代表する空手家が本土の大学からの招聘等によって日本本土に渡ったのである。

 

 大学で教えた名人達 
 唐手術が慶応大学、東京大学と広がってくると、その情報が他の大学にも伝わっていき、多くの大学等から師範の指導要請が相次いだ。しかし、富名腰義珍だけではそれに応じることが出来ない。そこで、沖縄から数々の著名な空手家が本土に渡ることになる。
 主な大学を掲げると次のようになる。

 1924年(大正13年)慶応大学唐手研究会(初代師範、富名腰義珍・沖縄出身)
 1926年(大正15年)東京帝国大学唐手研究会(初代師範、富名腰義珍・沖縄出身)
 1927年(昭和2年)東洋大学(初代師範、本部朝基・沖縄出身)
 1929年(昭和4年)立命館大学(初代師範、宮城長順・沖縄出身)
 1930年(昭和5年)拓殖大学(初代師範、富名腰義珍・沖縄出身)
 1933年(昭和8年)早稲田大学(初代師範、富名腰義珍・沖縄出身)
 1934年(昭和9年)東京農大(初代師範、平信賢・沖縄出身)
 1934年(昭和9年)法政大学(初代師範、富名腰義珍・沖縄出身)
 1936年(昭和11年)明治大学(初代師範、屋比久猛伝・沖縄出身)
 1936年(昭和11年)立教大学(初代師範、大塚博紀は富名腰義珍の弟子)
 1937年(昭和12年)同志社大学(初代師範、宮城長順・沖縄出身)
 1938年(昭和13年)京都大学(初代師範、宮城長順・沖縄出身)
 1939年(昭和14年)日本大学医科(初代師範、平信賢・沖縄出身)
 1949年(昭和15年)関西大学(初代師範、摩文仁賢和・沖縄出身)

 その他東京商大、昭和医大、昭和薬大、日本歯科大、秋田鉱専、横浜専門、一高等にもそれぞれの師範を迎え、唐手部が創設された。このようにして、琉球の唐手術は大学を中心にして各地に普及したのである。そこには、嘉納治五郎の沖縄訪問により、富名腰義珍に勝るとも劣らない指導者が沢山いることが判明したことが一因であった。もう一つの要因として、富名腰義珍が日本で初めて出版した唐手の本『琉球拳法唐手』は、当時の剣術(剣道)や柔術(柔道)に関わる人達に相当なインパクトを与えた。
 余談となるが、歴史的な唐手の本となった『琉球拳法唐手』は、大正11年11月に出版されている。これは、義珍が東京にやってきて初めて唐手の演武を行ってから半年しか経過していない。このような早さで唐手の本を創った義珍の能力は、高く評価しなければならない。日本初の唐手の本の内容は、第一章唐手とは何ぞや、第二章唐手の価値、第三章唐手の練習と教授法、第四章唐手の組織、第五章基本及び型という構成になっており、そして最後に付録がついている。
 この本について注目すべき点が幾つか存在する。第一に、唐手の型の中から十五の型を図で解説し、而もその型の流派名を昭林流と昭霊流の2つに分けてあることである。第二に、型の名前を沖縄で使用していたように発音するためにカタカナで表記したことである。第三に、投技を導入したことである。第四に、唐手の起源について堂々と私見を述べていることである。これらの指摘した点については、後に詳しく言及することにしたい。

 

 空手の競技化・スポーツ化 
 さて、日本本土に伝播した琉球の「手」、いや「唐手」は7、8年後には関東、関西の主要な大学に於いて唐手部が設立され、大学を中心にして急速に広がった。「唐手」の名称もその頃には「空手」という表記に変わろうとしていた。空手の大衆化はここでほぼ底辺が確立されたのである。そして、この大衆化された空手が本格的に拡大されていったのは、空手の競技化・スポーツ化である。空手はスポーツ化されることによって格段に普及した。秘伝空手は大衆空手となり、そしてスポーツ空手へと変容したのである。
 空手を競技化することの是非については大きな葛藤・対立があった。師範・富名腰義珍と東大空手部・三木二三郎門下生の激しい対立もその一つである。沖縄の伝統空手を武術として守りたい富名腰義珍と、伝統武術などという古い文化を壊して、現代の新しい文化であるスポーツとして空手を普及させるべきだ、とする三木二三郎の激しい対立が生じ、この異なる考えは最後までお互いに譲らなかった。
 富名腰義珍が東京大学の空手部の監督を辞めるものの、沖縄と東京の環境はあらゆる面において異なっており、また日本体育協会の会長である嘉納治五郎の立場も考慮すると、富名腰は大きな声で空手のスポーツ化に反対を唱えるわけにはいかない事情があり、苦況に立たされた。結果的に富名腰の意に反して沖縄の伝統空手「手」は武術としてよりも、スポーツとして発展することになったのである。

 

 富名腰義珍の指導に不信感 
 沖縄から日本に伝播した空手が変わったのは型の変更だけではない。名称が「唐手」から「空手」に変わっただけでもない。もっと重要なことが起こったのである。それは、空手の競技化であった。沖縄において、手・唐手はグスク時代の戦争における戦いの術であり、一撃必殺を目指した武術であった。それを競技スポーツとすることなど邪道であったのである。ただ、自らの破壊力を人間に試してみる、いわゆる「イリクミ」は通りすがりの力の強そうな人にわざとぶつかり喧嘩を売り、唐手の実戦を試すことは時たま行われたものの、空手を競技・スポーツ・ゲーム・娯楽として行おうという発想は生まれないし、また一撃必殺の唐手術において、そのようなことを考えること自体が邪道であり、唐手を知らないものが考えることだったのである。
 しかし、日本本土に上陸した唐手は一撃必殺の武術としてよりも、体育競技として改良されようとしていた。剣術を剣道に、柔術を柔道にして、これを競技化したのは、日本人そのものである。そして、嘉納治五郎もその張本人である。嘉納治五郎に見い出された琉球の唐手術も、とうとう競技用に改良される運命となったのである。
 1929年(昭和4年)、富名腰義珍の門下生で東大唐手部の三木二三郎と、高田瑞穂(慶應大出身で東大職員)が、沖縄を訪問し、唐手の実態調査を行っている。三木二三郎は東大唐手部の学生であったが、家系が裕福であったため、沖縄の空手事情をこの目で確かめるべく沖縄を訪問し、沖縄の空手家に会い、その指導を受け、考えを聞いて唐手に対する認識を深めようとしたのである。
 三木は富名腰義珍師範の唐手に対する指導や考え方そのものに対して、十分納得していなかったと思われる。富名腰義珍の指導に対し、むしろ不信感さえ持っていたのではないかと思われるのである。


防具付き試合の一例
 

 
 
 
 野村耕栄(のはら・こうえい) 

沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。

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