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中国・清を破り、大国ロシアを相手に日露戦争で勝利を納めた日本は、これを機に1910年(明治43年)、武力を背景にして「日韓併合に関する条約」を結び、朝鮮を併合し、総督府を設置して現役の武官を総督とした。以後、朝鮮は日本が第二次世界大戦で敗戦が確定する1945年までの35年間、日本の完全な植民地となったのである。
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遼東半島を還付
日清講和条約調印後、1週間も経たぬ間に、ロシアが「遼東半島を清国に返してやれ」という横やりを日本に入れてきた。むろん、ロシア自身が考えて発案したものだが、ロシアはこの要求を、世界の公論という形にして、正当の擬態をとるため、フランスとドイツを語らって要求してきた。
弱小国の日本が台頭してきたことは、中国でほとんど独占市場を行っているイギリスや機会均等法を叫びつつ、ちゃっかり甘い汁を吸っているアメリカを刺激はしなかったが、イギリスに冷や飯を食わされているフランスや、欧州列強の中で後進国的なドイツを刺激した。
ドイツの考えは、大国ロシアの目を欧州から極東に向けておけば、自らは安心という考えがあった。これがいわゆる「三国干渉」である。日本は戦慄した。この要求を容れなければ一戦あるのみ、という態度がロシア側にあることが判った。日本は到底、ロシアと戦えるような国ではない、ましてドイツやフランスをも敵にまわすような実力はなく、実力がなければ、その言いなりになるしかなかった。
日本は遼東半島を還付した。表向きの理由は「遼東半島を奪うことは、東洋の平和に障害がある」というもので、むろん、これは口実に過ぎない。なぜならば、ロシアはその後わずか2年後に自ら遼東半島に軍隊を入れて奪ってしまったのみならず、満州まで占領してしまったのである。もっとも形は租借という形であった。
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日露、戦争継続が困難
日本の遼東半島占有を排撃して、清国に恩を売り、更なる報酬を得んとしたロシアは、清国が日本に支払う巨額の賠償金の調達を斡旋したりした。
1896年、帝政ロシアは東清鉄道の敷設権を得て翌年から鉄道建設に着手した。東清鉄道は、表向きは露清銀行と清国政府との合弁会社であり、露清銀行はフランス資本であったが、実権は帝政ロシアが握っていた。その後、1898年(明治31年)大連・旅順を租借した。
租借権を獲得したロシアは、旅順口を軍港とし、大連港を通商港とし、陸海軍を上陸させて軍政・民政を敷いた。大連湾内の青泥窪部落一帯を買収して新市街を建設して「ダーリニー」と命名した。「ダーリニー」とはロシア語で「遠方」を意味する。シベリア鉄道はチタとウラジオストックの間では、露清国境に沿って大きく北に迂回するが、この区間の短路線として東清鉄道を建設した。また、旅順を軍港とした後、旅順とハルピン間を満州鉄道で結んだ。
一方、日本は日清戦争の結果、国際的地位が向上し、大陸進出の足場を築いたことになる。さらに日清戦争後の三国干渉以来、日本とロシアの対立が深まり、義和団事件(北清事件・1900年<明治37年>)の後、ロシアが満州から引き上げなかったので、日本としてはロシアに対して不満を抱いていた。ロシアの南下に備えて、1902年に東アジアでの利害の一致するイギリスと日英同盟を結ぶと、日本とロシアの対立は決定的となっていった。
1904年(明治37年)、日露戦争が始まり、日本は苦戦しながらも陸軍は奉天(今の藩陽)の会戦で勝利をおさめ、海軍は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った。しかし、日本は兵力や物資が不足し、日清戦争で得た賠償金を充てる財力、それ自体も底をついてしまった。
一方、ロシアでは専制政治に反対する革命運動が起こり、両国とも戦争継続が困難になった。1905年(明治38年)アメリカ大統領セオドル・ルーズベルトの仲介でアメリカ東北部のポーツマスで講和会議が開かれ、講和条約が締結された。結果、ロシアの南下は押さえられ、日本は朝鮮に対する優越権、旅順・大連など遼東半島南部の租借権や東清鉄道の一部を譲り受けるとともに、樺太の南半分も手に入れた。
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日本の道場そのもの
さて、日清戦争の原因となった朝鮮とは、どのような国であろうか。李王朝(李氏朝鮮)という高麗の武将・李氏が建てた朝鮮最後の王朝(1392年~1910年)が支配していた邦で、1392年より1910年の「日韓併合」まで、27代にわたって続いた。
15世紀には、対馬・北九州の諸大名との交易を通して日本と交流していたが、太閤・豊臣秀吉の朝鮮征伐によって、国連が衰退し、宗主国・明国が滅亡すると、満州族の清国の属国となった。その後、江戸時代には、日本と国交を回復し、19世紀初めまで12回にわたって「朝鮮通信使」と呼ばれる使節を日本に派遣した。その後、清国への遠慮から鎖国政策をとったが明治維新後開国したのだった。
日本は日露戦争後のポーツマス条約で朝鮮に対する優越権を認められると、すぐに朝鮮を保護国とし、伊藤博文を統監として派遣し、外交・軍事などを日本の手に治め、1907年(明治40年)には政権も握った。これに対し、朝鮮民衆の抵抗が盛んになり、伊藤はその2年後の1909年満州のハルビンで暗殺された。
日本はこれを機に1910年(明治43年)、武力を背景にして「日韓併合に関する条約」を結び、朝鮮を併合し、総督府を設置して現役の武官を総督とした。
以後、朝鮮は日本が第二次世界大戦で敗戦が確定する1945年までの35年間、日本の完全な植民地となったのである。
言うまでもなく、朝鮮半島は1910年以降、日本政府の隷属的支配下にあった。そのため、解放(1945.8.15)まで朝鮮全土に散在した道場(主に剣道・柔術/柔道など)は、本質的に日本の道場そのものであった、と言われている。
日本政府は1930年代、中国大陸侵略を本格的にはじめるにあたって、朝鮮半島で徹底した同化政策を取った。いわゆる「皇国臣民化政策」である。神社参拝から始まり、すべての学校で「皇国臣民の誓詞」(1937年10月制定)を唱えることを義務化し、母国語が日本語であると教え朝鮮語を抹殺した(1938年朝鮮教育令)。さらに創氏改名(1940年)によって日本名を強要した。このように皇国臣民化政策が強行に実施される中、武道もまた、「自国」(朝鮮=日本)の武道として教育したのである。
このような大日本帝国が軍備を充実させて、欧米列強に負けない武力を持つことを目指して富国強兵を進めていた当時、まさに日韓併合を行った同年の1910年(明治43年)に八代六郎海軍大佐が率いる海軍練習艦隊が沖縄那覇港に入港したのである。
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伊藤 博文/第1・5・7・10代日本内閣総理大臣
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野村耕栄(のはら・こうえい)
沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。 |
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