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糸洲安恒の「唐手十訓」に対して初めて異論を唱えたのは安里安恒の談話を発表した船越義珍であった。糸洲十訓の前文にある「唐手は儒仏道より出候ものに非ず。往古、昭林流、昭霊流と云(ふ)二派、支那より伝来(し)たるも(の)にして」に対して安里安恒の談話は「唐手の起源について、唐手は沖縄固有の武芸である」と主張したのである。
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大きな落とし穴があった
糸洲安恒は78歳という高齢にもかかわらず、1908年に沖縄県学務課に対して糸洲十訓なるものを建議した。そして、カラテの名称統一について、「手」(Tiy)や「唐手」(Tudiy)
という沖縄の方言を採用することを辞めて、日本本土の共通語である「唐手」(Karate)に統一した。この時点で沖縄独自の文化であった古来伝承されていた「手」(Tiy)という用語は公式には使われなくなったのである。
同じ言葉(共通語)を使って同化政策を推進していた当時の軍国主義日本が推奨する「方言を使ってはいけません。すべて共通語励行をしましょう」というスローガンからするとカラテの世界も同様に縛りがかかっていたのかもしれない。
もうひとつ注目しなければならない点がある。それは、糸洲十訓の前文である。その前文には「唐手は儒仏道より出候ものに非ず。往古、昭林流、昭霊流と云(ふ)二派、支那より伝来(し)たるも(の)にして、両派各々長ずる所あ(り)て、其儘(そのまま)保存して潤色を加ふ可らざるを要とす。仍而(よって)、心得の條々左記す。」と記載されている。その文中の「往古、昭林流、昭霊流と云(ふ)二派、支那より伝来(し)たるも(の)にして」という表現である。この表現からすると「唐手は中国(支那)から伝来した」と明記されており、多くのカラテ家がカラテは中国から伝播した、と信じ込む大きな要因となっている。これは、カラテについてカラテは元来琉球では「手」(Tiy)と呼ばれていたこと、そして中国拳法が琉球に伝播した時に唐からやってきた「手」という意味で「唐手」(Tudiy)と名づけられたこと等を説明し、よって、「手」(Tiy)と「唐手」(Tudiy)は異なるのだ、という説明をしてから、前文を書かないと「手」も「唐手」もごっちゃ混ぜにされて、これからはすべて「唐手」と呼んでくださいとなると、双方ともすべて同じだという概念でしか読者は理解しない。ここに糸洲安恒の大きな落とし穴があったのである。糸洲安恒はこのことを意識して書いたのか、それとも「手」と「唐手」は全く違う概念だから当然にわかりきったことで、ここで「唐手」と書けば当然に中国拳法のことであるという意識で書いたのか明白ではない。しかし、カラテの名称について「手」(Tiy)、「唐手」(Tudiy)、「手」(Te)、「唐手」(Toute)、「唐手」(Karate)などという言葉が学校や世間で混在して使われ、この混然とした言葉を一つに統一しようとした糸洲安恒の趣旨からすると、前文の説明ははなはだ不完全で重要な部分の欠落があることは否めない。
糸洲十訓の前文に「昭林流、昭霊流と云(ふ)二派、」という書き出しがある。この二派について、当時どの程度認知されていたのか甚だ疑問を感じる。その当時はむしろ「首里手」「那覇手」「泊手」などという呼び方が巷においては普通であったのではなかろうか。それを「昭林流」「昭霊流」という二流を持ち出したところにも糸洲安恒の宋国中国の武術を誇張したいという意図が伺える。沖縄の方言で「首里手」は「スイディー」、「那覇手」は「ナファデイ」というのであるが、このように浸透している言葉であっても沖縄方言だからということでこの言葉を採用しなかったということも考えられる。
この「昭林流」「昭霊流」という二流は、沖縄においてはほとんど浸透していなかったのではないだろうか。何故なら、船越義珍が東京において初めてカラテの演武をした時にも、彼は自分の流派名を持っていなかったのである。あるのは首里手であり、琉球唐手術であった。同じように1930年(昭和5年)、宮城長順の名代で、東京明治神宮大会で出演した新里仁安は大会関係者から流派名を尋ねられて困惑してしまい、沖縄に帰ってから宮城長順に相談したところ、武備志からとって「剛柔流」と命名した、とあるように、当時は「昭林流」「昭霊流」などという流派名を使う道場はほとんどなかったのである。
従って、琉球においてほとんど周知されていなかった「昭林流」「昭霊流」の二流の名前を挙げて支那から伝播したと特筆している糸洲安恒の意図が誇張されているように思えるし、当時普通に使われていた「首里手」や「那覇手」という言葉をどうして使わなかったのか疑問が残るところである。
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糸洲十訓に対し異論
さて、この糸洲十訓に対して最初に異論を唱えたものは安里安恒の門弟であった船越義珍であった。安里安恒は生粋の首里手であり、松村宗棍の直弟子である。これに比べ、糸洲安恒は、那覇手の長浜築登之親雲上に「唐手」の手ほどきを受け、後に首里手の松村宗棍に「手」を師事した人である。そこには、自然と「手」(Tiy)と「唐手」(Tudiy)に対する感覚の違い、哲学の違いが生じていたのかもしれない。
糸洲十訓が発表されてから6年後の1914年に船越義珍は自分の恩師である安里安恒の談話として、初めて糸洲十訓に対する異論を当時の新聞に発表した。このタイミングは非常に微妙なタイミングであった。それは、糸洲安恒が亡くなる1年前のことである。船越義珍は糸洲安恒が生きている間に、自分の師匠である安里安恒から聞いた話をカラテ界に広く周知させる必要性を強く感じていたのであろう。糸洲十訓と違う意見を新聞に発表するからには、やはり本人が生きている間に堂々と疑問を呈し、自分の信念を通さなければ師匠の仏前に顔を合わせることができない、と思ったに違いない。
そう、その時、師匠安里安恒は既に1903年に亡くなっており、糸洲十訓が建議された1908年にはもうこの世にいなかったのである。したがって、安里安恒が糸洲十訓について何の意見もあるはずがないのである。しかし、船越義珍は自分の師匠が生きていたころに語った談話として糸洲十訓に対して意見を述べたのである。そして、これより後、船越義珍は「手」に対する信念をますます強くしていくのである。
その新聞に掲載された談話とは次のようなことであった。
新聞の見出しは、『沖縄の武技唐手に就いて安里安恒氏談・沖縄の武技』となっている。そして次のような内容であった。
「唐手の起源について、空手の起源に就いては巷説紛々で自分もしばしば質問を受けることになるが、想うにこれは沖縄固有の武芸にして田舎の舞方なるものが所謂空手の未だ発達せざる時代のそのままであろう。見よ、女子の喧嘩の時につかみ合いをなし、子供の争闘の時に鉄拳を振り廻わすが如き、是等は皆沖縄開祖以来の遺伝性に基づくものにして、本懸人は生まれながらにこの性あるのではないか。沖縄もずっと大昔は京阿波根親方とか浦添眞山戸とか謝邁親方(今の赤平の具志川の元祖)とかいうような歴々たる知名の武士が出られて其範を示されたが、唐手と云う名が判然世の中に知り亘るようになったのは、赤田の唐手佐久川からである。(以下省略)」と記されている。
これは、糸洲安恒が前文で述べた、「唐手は昭林流、昭霊流と云(ふ)二派が支那(中国)から伝来したもの」という主張に対して、カラテの起源は支那(中国)から伝播したものではなくて、「沖縄固有の武芸である」と主張しているのである。糸洲安恒の糸洲十訓は画期的な「唐手十訓」であったが、この安里安恒の談話を書いた船越義珍の「唐手の起源は沖縄固有の武芸である」という一言はそれに勝るとも劣らない画期的な一言であった。
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近代空手道の父・船越義珍。
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野村耕栄(のはら・こうえい)
沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。 |
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