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糸洲安恒は70歳の高齢にして、学校で大衆による公開の唐手を教え始めた最初の人物となった。そのときから、秘伝「手(Tiy)は武術としてよりも体育としての道を歩み始めたと言っても過言ではない。そして7年後、糸洲安恒は重大な決心をする。「糸洲十訓」の提言である。その十訓の中で糸洲安恒が意図したものはないか。そしてその選択は本当に正しかったのか。
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秘伝として隠れて鍛錬する
1901年4月首里尋常小学校に体操科の一部として唐手が課され、華々しく公開された。唐手はこれまで師範と弟子の一対一の個人指導で門外不出の技として伝承された武術であったが、形を変え団体指導というこれまでの「手」(Tiy)の指導法を打ち破る画期的な指導法を編み出したのである。これを編み出したのが糸洲安恒その人なのである。
ちなみに剣道が日本の中学校で必修科目となったのは1911年であり、柔道は1931年である。沖縄では、剣道や柔道が学校教育に取り入れられる数十年前に沖縄独自の武道「手」(Tiy)をいち早く学校教育に取り入れていたのである。沖縄県教育長はこの空手の導入についてその結果を文部省に報告したことや、また「唐手」(Tudiy)が海軍の研究課題となっているということが当時の沖縄の新聞に記載されている。
「手」(Tiy)はあくまで秘伝として隠れて鍛錬するものであった。しかし、「唐手」(Tudiy)の時代になって、琉球王朝は平和な時代が続き、戦が長い間なかったために、武術は次第に秘伝から公開へと変化していった。そして、とうとう「唐手」(Tudiy)は公開の場で団体で演武されるようになっていったのである。これはまさしく「手」(Tiy)の変容である。
さらに1904年、糸洲安恒は嘱託として県立第一中学校で空手指導をおこなった。また、同じように屋部憲通も嘱託として師範学校で空手指導を行ったのである。ちょうどその年に日露戦争は勃発している。そして、剛柔流の宮城長順が唐手修業のため中国福建省へ渡ったのもこの年である。1905年に沖縄県立第一中学校並びに那覇市立商業学校及び沖縄県立師範学校に唐手部が設置された。これと相前後して県立農林学校、県立工業学校、県立水産学校等にも設置される。そして、糸洲安恒は「チャンナンの型」を参考にして『平安二段~五段の型』を創案したのである。
このようにして、沖縄の空手の指導者の第一人者となった糸洲は、1908年、沖縄県学務課へ「唐手十ヶ条」を建言した。その当時糸洲は78歳であった。学校で空手を指導してから7年の歳月が流れていた。奈良原知事の意向を汲んで順調に教える学校も増えてきた。そんな中で、糸洲は重大な決心をする。自らの年齢を考え、また盟友の奈良原知事の任期を考えるといつまでこのまま続くのかわからない。また、奈良原知事としても糸洲安恒がいなくなってもその精神を後継者に承継させるために、糸洲に唐手についての確たる文言を残してもらいたいと要望したに違いない。そこで生まれたのがいわゆる「糸洲十訓」である。
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大和人に対するコンプレックス
糸洲安恒は「十訓」を残すに当たって2つの重大な決断をする。その一つは武術の名称を統一することであり、二つ目はこの武術が軍隊鍛錬にも有効であることを明言することであった。空手は琉球のグスク時代の武術として古来には「手」(Tiy)と称され、一千年以上そのように呼ばれてきた。しかし、19世紀中ごろから中国拳法が琉球に伝播したためにそれを中国(唐)の「手」と呼んで「唐手」(Tudiy)と称した。従って「手」と「唐手」の並存時代となったのである。そして「手」(Tiy)が首里手となり「唐手」(Tudiy)は那覇手へと継承されていったのである。もちろん主流は首里手である。しかし、この二つの名称は学校で空手を教授する場合に混乱を引き起こす。「手」と言ったり「唐手」と言ったりして生徒には理解できない。また、学校で教育するとなると共通語で教えなければならない。「手」(Tiy)や「唐手」(Tudiy)は沖縄の方言である。そうすると「手」(Tiy)は「手」(Te)になり、「唐手」(Tudiy)は「唐手」(Toute)となるのである。しかも、沖縄の共通語では「唐手」(Toute)といっても、日本本土から来ている沖縄県庁の役人は「唐手」(Toute)と読まず「唐手」(Karate)としか読まないのである。ここに呼び方が「手」(Tiy)、「手」(Te)、「唐手」(Tudiy)、「唐手」(Toute)、「唐手」(Karate)という5つの呼び方が生じる。さて、糸洲安恒は7年間教えながらこの名称をどうにかして統一しなければならないと痛感したに違いない。そこで糸洲安恒が選んだものは「唐手」(Karate)であった。
なぜに糸洲安恒は「唐手」(Karate)を選んだのだろうか。そこには琉球人の大和人に対するコンプレックスが想像される。糸洲安恒は琉球王国時代は国王の側筆者であり、高級官僚の武士であった。しかし、日本が琉球王朝を解体した1879年以来職を奪われ地位を失って、悲哀をなめていたのである。その日本に対抗できるのは琉球ではなく中国であると信じていた糸洲は自らの教える武術の名称を「唐手」(Karate)とし、宗国中国の武術であるという権威付けがほしかったのである。彼は琉球の方言を採用するのを辞めたのである。
よって、これまで「手」(Tiy)と呼ばれていた沖縄の空手は以後公式には「唐手」(Karate)と呼ぶことになった。これは「手」(Tiy)の歴史上重大な変更であった。この呼び方は学校で行われたが、一般には「手」(Tiy)が馴染みがあり、また「唐手」ではない首里手の空手家などからはすんなりと受け入れるわけにはいかなかったのも事実である。歴史には「もし」という言葉はない、と言われるが、もしも、当時糸洲安恒が空手の呼び名について「唐手」(Karate)ではなく「手」(Tiy)という呼称に統一しておけば現在のような空手に対する誤解や混乱は生じなかったと思われる。そして、空手は「手」(Tiy)と呼ばれ、「唐手」(Karate-Tudiy)という言葉がなくなり、従って日本本土に伝播しても「手」(Tiy)として伝播し、「空手」という言葉も生まれなかったのである。このことを思うと、糸洲翁の業績は多大であることは認めるが、この「手」(Tiy)をすべて「唐手」(Karate)に呼称を統一したことについては、琉球の歴史文化という観点から後世に多大な禍根を残したことは否定できない。これが今の世であれば、沖縄の人はこぞって「手」(Tiy)を選んでいたであろう。
糸洲安恒が「十訓」にこめたもう一つの意図は、唐手による軍隊鍛錬の効用である。ここにも琉球人の大和人に対する対抗意識を感じざるを得ない。琉球には大和の剣術や柔術にも勝るとも劣らない武術が存在するのだということを主張しているように思える。「糸洲十訓」の第2条に「…小学校時代より練習致させ候はば、他日兵士に充るの時、…前途軍人社会の一助にも可相成と存候」と記され、第8条に「唐手練習の時は戦場に出る気勢にて、目をいからし、肩を下げ…」とあり、後文の中でも「…本県人民の為のみならず、軍人社会の一助にも相成可…」と記載されており、いかに沖縄の唐手が当時の軍国主義の日本にとって多大な貢献ができるかを強調している。そこには琉球人の大和人に対する負けん気が象徴されている。しかし、沖縄の空手は平和をもっとも尊ぶ武術だと言われているのではなかったのか。軍人と平和は相反する概念ではなかったのか。糸洲十訓から本当に真の平和主義が見えてくるのであろうか。
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平和の象徴:守礼の門
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野村耕栄(のはら・こうえい)
沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。 |
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