沖縄一中ストライキ事件が起こったのは偶然ではない。異民族が小国を侵略して植民地支配することに対する、一連のマグマ爆発である。明治政府が琉球を略奪するエネルギーと、支配されることを拒否しようとする小民族の抵抗の歴史は、琉球王国の尚泰王が明治政府の強権によって琉球藩主に格付けられた1872年から始まり、1879年に尚泰王が東京に連行され移住させられ、琉球王国を解体して沖縄県が誕生した日をもって終焉したのではない。琉球王国を侵奪された琉球人の多くが激しい怒りの中で抵抗を続けていたことを証明するのが、この沖縄一中ストライキ事件なのである。 |
激動するウチナー・琉球 漢那は数人の同志と相計り、児島校長に対して徹底的に戦うことを誓い合った。そこで彼らは、まず下国教頭や田島教諭に迷惑のかからぬよう退学届けを出し、その上で児島校長に辞職を勧告した。漢那らは他の生徒にも働きかけたので、それからは毎日、何人かずつが退学届けを出してストに参加するようになり、ついには三年生以上の殆どが退学届けを出し、更に一、二年生にも呼びかけたので、結局、退学届けを出したのは百数十名にも達した。このストに、琉球の新聞も同調したので、全島的な大問題に発展した。 この影響は、やがて小学生にまでおよび、「あんな校長のいる中学校には入りたくない」と言うようになった。ある小学校では、全員が中学校進学を拒否したという。沖縄民衆の強力な支援のもとに行われたこの抵抗に、万策つきた当局は、これ以上悪化させると民衆運動にでも発展しかねないことを恐れ、ついに児玉校長の県外転任を決めることになる。ストはついに成功したのである。 何故このような弱冠15、16歳の一中学生のストライキが政府という権力を相手に対峙でき、しかも打ち勝つことができたのか。この事件の背景にある、抑圧された琉球人のヤマトゥー・日本国に対する激しい抵抗の歴史を見逃してはならない。この歴史的事件の現場が、後に「空手」を体育の正科として全国で初めて採り入れた学校となったのは奇遇であった。 日本が琉球王国を廃止して琉球藩とした頃から、王国存立のために戦った当時の琉球の武士達がおり、彼らは「頑固党」と呼ばれた。そして、その急先鋒となったのが、「脱清人」と呼ばれる「清国亡命琉球人」であり、彼らは中国・清に亡命し、清に対して琉球王国を救ってくれるよう懇願して、清の後押しによって琉球王国の存続を画策していたのである。 しかし、中国・清では、1840年にイギリスからのアヘン輸入禁止をめぐりアヘン戦争が勃発し、それに敗れ2年後の1842年、両国は江寧(南京)条約に調印した。この条約で清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇条項の承認などを與儀なくされた。このイギリスと清との不平等条約は、他の列強諸国も便乗するところとなり、アメリアの望厦条約、フランスの黄埔条約などが結ばれた。 このようにして朝貢体制を誇示していた中国は、欧米諸国の餌食となり、自分の国を守るのに必死に状況にあった為に、日本の琉球侵略に手を打つゆとりはなかったのである。それでも、脱清人は琉球王国を救うために頑張ったのであるが、その一人に林世功がいる。彼は琉球処分時の「琉球の将来を憂えた志士」たちの一人であり、脱琉球清人である。彼らは、1876年琉球窮状を訴えるため、清国に渡る。79年、福州から北京に上り直訴に及んだが、その努力も報われず、まもなく日清間で「琉球分島改約案」が合意。この知らせを受けた林は、失意の中で80年に北京で自害を遂げた。その亡き骸は北京近郊の通県に葬られたというが、墓所は見つかっていない。享年、38歳であった。 1879年の内務郷・伊藤博文から沖縄県令・鍋島直彬宛て内達が、その全容の核心を物語っている。明治12年9月18日付で沖縄県から提出された「県治上処置振リニ付テノ具申書」に対する伊藤内務卿の「内達」。置県直後、首里・那覇から地方にいたるまで県政ボイコットの動きがあり、とりわけ県政不服従の「盟約書」が明るみに出て、県当局も態度を硬化させ、その首謀者の摘発に乗り出した。県が入手したその「盟約書」(仰日記)について、「就中盟約一条ノ仰日記ノ如キハ、首里旧評定所ノ手ニ成リタルモノト視認ムヘキ形跡ニ付、其根源迄モ推究」した上、旧三司官以下関係旧官吏を容赦なく処罰せよ、と指示している。 その命を受けて、頑張った初代沖縄県令(知事)・鍋島直彬であったが、民衆の抵抗を沈めることはできずに苦闘していた。1881年、県令・書記官より内務・大蔵両卿への「内申」書には「早くこの職を解いて頂きたい」旨の辞職願が出ているのである。 県令・鍋島直彬、書記官・原忠順による草創期の沖縄県政は、多くの困難に直面した。第一には三司官以下旧王府支配者および地方役人の県政非協力・妨害、第二には県外から雇った県職員の職務不履行・怠慢、第三には鹿児島の寄留商人の私利追及と県管吏の結託、等々である。これらのことかが複雑に絡んで、県政を麻痺させ、県政への誹謗を誘発し、県令・書記官の辞職を言い立てる者も現れた。この「内申」は、これらの誹謗が事実無根であることを弁明し、汚名を濯ぐために書かれ、県令・書記官連名で内務・大蔵両卿宛に提出された。末尾で「速ニ本職ヲ解カレ候様御取扱被下度伏テ奉懇願候也」と辞職を願い出ている。 |
漢那 憲和 大日本帝国海軍の軍人、海軍少将、政治家。海軍兵学校27期卒。当時の皇太子(昭和天皇)の欧州遊学の際、御召艦「香取」の艦長を務めた。退役後は地元・沖縄県選出の衆議院議員となった。 |
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野村耕栄(のはら・こうえい)
沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。 |
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