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7世紀から始まった「手」(Tiy)の時代は、18世紀末に中国拳法が琉球にと伝播し、「唐手」(Tudiy)と名付けられ、従って18世紀の終わり頃からは「手」(Tiy)と「唐手」(Tudiy)の並存時代となった。もちろん主流は「手」(Tiy)であり、「唐手」(Tudiy)はあくまでも亜流であった。しかし、次第に亜流であった「唐手」(Tudiy)が表舞台に登場してくる。それは何故なのか。
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「唐手」(Tudiy)の時代
「唐手」(Tudiy)という言葉は、18世紀の終わりごろから19世紀にかけて初めて琉球で使われた用語である。佐久川親雲上が中国拳法の技を琉球に持ち帰った時からこの「唐手」(Tudiy)という言葉が生まれた。繰り返しになるが、この言葉はグスク時代から琉球に存在した武術「手」(Tiy)に対して、唐(中国)から伝来された「手」ということで「唐手」(Tudiy)と呼ばれたのである。中国のことを沖縄の言葉(方言)では「Tu」という。中国が紀元前1世紀の漢の時代から三国、晋、南北朝、隋、唐、五大十国、宋、元、明、清と変わっていっても、琉球人は中国のことを「唐」(トゥー・Tu)と呼ぶのである。どうして琉球人は中国のことを19,20世紀の清の時代になっても、いや、いつの時代にも「唐」(Tu)と呼んだのかが非常に興味のある課題であるが、このような琉球の歴史を知らない本土日本人が「唐手」を「Tudiy」と読まずに「Karate」と読むのである。琉球においては18世紀に伝播した中国拳法「唐手」は20世紀初頭まで「Tudiy」と言われていた。従って、18世紀から20世紀まで琉球には、本来の「手」(Tiy)であり、「唐手」(Tudiy)が併存していたのであるが、もちろん本流は「手」(Tiy)であり、「唐手」(Tudiy)は亜流であった。
このマイナーでしかなかった「唐手」(Tudiy)が何故本流の「手」(Tiy)に変わって一躍表舞台に躍り出たのか。この答えの鍵はカラテの大衆化と関係がある。1900年まで「手」はグスク時代の殺人技、秘伝の技として継承されてきた。従って、祭りにおける「棒術踊り」や「舞方」とは別として、基本的に「手」(Tiy)を真剣に鍛錬しようとする者は、人目につかないように心して教授され、鍛錬するものであった。ところが、1901年に「手」(Tiy)が学校教育の体育科の中に導入される事になったのである。この「手」の学校教育導入を推進したのは当時71歳にもなる首里手の長老・糸洲安恒であった。18世紀末に「唐手」が伝播してから20世紀の初頭までの100年の間に、これまで秘伝であった「手」(Tiy)は「唐手」(Tudiy)とともに大衆の目にさらされるようになっていった。こうして秘伝「手」(Tiy)は「唐手」(Tudiy)の出現によって、秘伝武術から大衆武術に変容していったのである。
さて、ここで重要なことは、何故「手」(Tiy)が学校の体育科の正規の科目に成り得たのかということである。そもそも、学制が日本に施行されたのは、1872年(明治5年)である。それまでの教育と言えば、学問をなすものは武士以上のものとされており、藩が藩校を創り学問を教えており、一般平民は資力のある子弟が寺子屋や私塾に通う程度であった。しかし、明治政府は太政官布告を出し、「自今以後此等の弊を改め一般の人民他事を抛ち自ら奮て必ず学に従事せしむべき様心得べき事」として、学校への入学を国民の義務としたのである。これが学制である。この学制が沖縄に施行されたのは本土より8年遅れた1880年で、琉球処分の翌年からである。1882年には沖縄に於いて小学校53校ができ、就学率は2.5%であったが、1906年には就学率92.8%までになった。
さて、学制が沖縄で施行されてから15年経った1895年に、「沖縄一中ストライキ事件」が勃発した。学制が敷かれた日本で初めて行われた学制ストライキが沖縄県で起こったのである。琉球王国が解体され最後の国王となった第19代尚泰王が強制的に東京に連行され居住を命じられた琉球処分の1879年以降、琉球は日本国の一部となったが、これを機に日本政府は琉球当時の為に細心の注意を払いつつ、大量の本土日本人を琉球に送り込んだ。沖縄県の知事を初め、公的機関の要職や学校長、教員に至るまで、ほとんどの権力を持つ重要ポストを本土日本人で占めたのである。琉球人に有無を言わさない万全の布陣を固めたのである。しかし、そのために琉球人はますます閉塞感に陥り、とうとう琉球人の想いが爆発したのが、この「沖縄一中ストライキ事件」なのである。
当時、沖縄には中学校として沖縄師範大学校と沖縄中学校(沖縄一中)の二つしかなかったが、この双方の校長をつとめていた児玉善八(本土日本人)の、沖縄人を差別した発言や、差別教育、教師の罷免などに対して学生がストを起こした。具体的には、沖縄の本土同化を急速に促進するため、英語教育を廃し、国語のみにしようとしたこと、そしてそれに反対した下国教頭を休職処分としたこと、さらに沖縄と沖縄の文化を愛し、極めて開明的であった国語の教師・田島利三郎教諭の罷免処分を行ったことなどがストライキの直接のきっかけであった。
児玉校長の方針は、英語教育を廃止してその代わり日本国民として最も重要な国語の時間を増やすことであった。琉球には琉球語があり、日本語がろくに話せない。先ずは日本の教育を十分に周知徹底するためには日本語の教育が最も重要だと考えたのであろう。この思想はまさに日本国の皇民化思想と直結する。琉球人も日本国民の一人であるという意識を強要するためには言語の習得が一番重要である。同じ言語を使って人は同化していくのである。この教育方針は日本国が、満州や台湾、韓国その他の外国を植民地化したときに執られた日本語教育の強制化と、全く同一線上にある。
当時の明治政府は学制を制定するとき、5本の柱の一つとして「海外留学」を打ち出していた。明治政府が目指すものは長い鎖国時代から解放された海外に目を向けて世界の国々と堂々と渡り合える国際人を育てる人材育成を目指していたのである。従って、高等教育課程(現在の大学)の受験科目には英語の試験を必須としていた。それで日本本土の中等教育課程においては英語の授業に力を入れていたのである。その大学受験科目となる英語の授業をやめて国語の授業を増やすということは、沖縄の中等学生はみんな大学に進学できないということになる。このような、差別的な教育を実施しようとした児玉校長の罷免を求めて学生が立ち上がったのである。学制がストライキを起こすなど、当時は信じられないことであった。その信じられないことが沖縄に於いて勃発したのである。このストライキを首謀したものは5人であった。
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琉球王国王冠:1879年琉球国尚泰王が最後にかぶった王冠。
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野村耕栄(のはら・こうえい)
沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。 |
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