琉球王国時代
「手」の時代は、まだまだ続く。第一尚氏琉球王朝時代は尚思紹(1406~1421)に始まり、7代尚徳(1441~1469)までの63年間である。その間、南山の佐敷按司であった尚思紹が中山を滅ぼし王に就き、2代目尚巴志は1416年に今帰仁の北山を滅ぼし、1429年に大里の南山を滅ぼして琉球統一を成し遂げ、唯一の琉球王国を築き上げたのである。しかし、琉球王国統一後もいくつかの戦いは続いた。尚泰久(1453~1460)の時代に、中山の勝連城按司・阿麻和利が中城按司の護佐丸を滅ぼし、その勢いで首里城に反乱を起こした。そこで、王側は、阿麻和利を撃退した。護佐丸、阿麻和利ともに優れた「手」の名人であったと言われている。
第二尚氏王統は尚円(1469~1476)から21代尚泰王(1847~1879)まで続くのであるが、そのうち「手」(Tiy)の時代は、第15代尚穆(1751~1794)まで続いたのである。つまり尚穆王の側司である首里手の名人・佐久川親雲上寛賀が1800年頃に中国に行き、中国拳法を習ってきた時に、初めて「唐手」(Tudiy)という言葉が生まれた。それまでは、琉球には「手」(Tiy)という言葉しかなかったのである。
特に、第二尚氏王統における注目すべき戦いは、「オヤケアカハチの乱」である。第二尚氏王統の第三代尚真王(1476~1526)は、沖縄本島にいる按司たちを首里に移住させ、地方統治を強化した。宮古や八重山地域のリーダーにとっては尚真王の勢力は脅威で、服属して琉球王国の一部になるか、敵対して自分の領地の権益を死守するかの選択を迫られていた。前者を選んだのが宮古の仲宗根豊見親で、後者を選んだのが八重山のオヤケアカハチである。宮古の支配者であった仲宗根豊見親は、尚真王に使者を送り臣下となることを伝えた。尚真王は八重山が服従しないことから八重山に遠征軍を送ることに決め、仲宗根豊見親にも遠征軍に加わることを命じた。
1500年、大里按司を大将とした総大将とした遠征軍は、那覇港から久米島に立ち寄り、君南風という神女を乗せ、宮古島で仲宗根豊見親軍と合流した後、オヤケアカハチとの対立で敗れた長田大主を案内人にして石垣島に到着した。その戦いではアカハチ軍は海を前に陣をしき、血気盛んなため、なかなか攻め込めなかった。遠征軍は夜を待って船団を二手に分けて挟み打ちに攻撃し、アカハチ軍を倒したのである。
遠征軍の船団に神女である君南風を乗せたのは、昔3人の神に仕える女性がいて、長女は首里、次女は八重山、三女は久米島の神にそれぞれ仕えていて、八重山と久米島はもともと姉妹の神であるため、首里の神が君南風を従軍させれば必ず八重山が従うという神託をしたからである。八重山征服に成功した尚真王は君南風の功績を褒め、褒美として首飾りと領地を与えた。戦争に神女を連れて行くという発想は、当時の人々の信仰に関する考え方がよくわかる。
また、八重山征服に力を貸した宮古の仲宗根豊見親は宮古の頭職、その妻は宮古大阿母という身分の高い神女職、石垣への水先案内を努めた長田大主は古見という村の首里大屋子職、その妹も八重山の身分の高い神女職が与えられたのである。
これが歴史上にいわれる「オヤケアカハチの乱」で、尚真王はこのオヤケアカハチの征服と、1522年の与那国征服によって、宮古・八重山地域に蔵元という役所をおき、政治力を発揮して琉球王国体制を先島まで拡大することに成功したのである。しかし、仲宗根豊見親やオヤケアカハチの存在も護佐丸や阿麻和利と同様、歴史書では尚真王に従った仲宗根豊見親と反乱勢力のオヤケアカハチとして描かれているのが、両者とも当時の宮古、八重山の強力な「手」チカヤーの武士であり、宮古島、八重山島の按司・リーダーとしてそれぞれの支配権をめぐって首里王府との駆け引きをしていたということが重要である。16世紀の初頭に八重山群島を治めていたオヤケアカハチが作った「赤蜂の根」というのがる。
1429年に三山統一した琉球王国は、沖縄本島を完全に統括し宮古を臣下に治め、そして1500年には八重山を征服し、1522年鬼虎の乱で与那国島を平定、1537年奄美大島を征討して広大な琉球王国を完成させた。7世紀に始まった琉球におけるグスクの戦いは、こうして1500年代になってようやく終焉を迎えることとなったのである。
この800年の長期にわたる戦いの中から生まれたのが、琉球の武術「手」(Tiy)なのであある。
繰り返しになるが、琉球における800年もの戦いは、棒、サイ、ヌンチャク、トゥンファー、ウェーク等の農具や漁具を武器として戦ったのであり、それらの武器が使えなくなったときは、素手で「イリクミ」の戦いを行って相手を倒したのである。「イリクミ」とは素手で倒すことであり、まさしく「手」(Tiy)の原形である。昔の武士達は、グスクを守るための戦いの中で、素手で相手を倒す「イリクミ」の中から「手」(Tiy)の技を編み出したのである。最も特徴とする技は正拳である。昔の武士は、正拳を鍛えるという独特な技術を編み出した。この技法は沖縄独特の技法であり、中国拳法、柔道、剣道、その他世界の格闘技のどれにも見られない沖縄武術独自の技法である。しかも「手」(Tiy)の最も重要で生命線ともなる技はこの正拳なのである。「手」(Tiy)の技は、この正拳から始まったと言っても過言ではない。
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