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琉球のグスク時代は、いわゆる戦国時代である。グスク時代の始まりは、按司の始まりでもあった。グスクは按司の居城だったからである。按司はグスクを守るために、自ら先頭に立って戦わなければならず、したがって、もっとも武力に秀でた武人の中の武人でなければならなかった。300以上あったグスクが併合されていき、15世紀には3つの強大なグスクに統括された。北山(今帰仁城)、中山(浦添城のち首里城)、南山(大里城)である。 |
グスクとは
グスク時代が始まった7世紀から琉球には、各地に小王や鳥了帥(村集落の長)がそれぞれの地域を統括する群雄割拠の時代があった。その地域の領主となり完全にその地域を統治したのが小王や鳥了帥であったが、彼らは後に按司と呼ばれるようになる。按司たちはそれぞれが繩張りとする村落や集落の中に自らのグスク(城)を築き、そこに住んでいたため、グスクとはつまり按司の居城なのである。グスクは、その村落の縄張りの象徴であると同時にグスクの王たる按司の権威の象徴であった。したがって、グスクと按司とは切っても切り離せない関係にある。グスク時代が始まったということは、按司の時代が始まったということに他ならない。
地域の按司となるためには、地域を統率する能力と合わせて、武力の強い者でなければならなかった。なぜなら、グスク(城)をめぐる戦いがそのグスクの運命を決するからである。つまり、按司とは戦人の中の最強の戦人である。いつの時代から小王や鳥了帥が按司と呼ばれるようになったかと言えば、7世紀から12世紀の間である。『中山世譜』(1724年)によれば、琉球を創造したアマミキヨがもうけた三男二女の中、長男が王で次男が按司であったと記されている。これからすると、琉球創造の早い時期に按司が誕生したことになる。
また、『中山世鑑』(1650年)によれば、天孫子王統の子孫が大里按司の妹に通じ男子を産ませ尊敦と名づけられたが、彼は15歳で浦添按司になったと記されている。その浦添按司が利勇という逆臣に毒殺されて利勇が浦添按司を称したとき、天孫子直系の舜天が利勇を首里城まで攻めて殺し、浦添按司となり舜天王となったのである。これは1186年のことであり、このことからすると11世紀から12世紀にかけて、すでに按司が存在していたことになる。7世紀に村落の長としてグスクを治めていた鳥了帥は、時代が進み10世紀又は11世紀終わり頃になると、按司と称されるようになっていたのである。
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稲作伝来とグスクの形成
さて、ここで琉球グスク形成及び按司誕生と深くかかわりのある稲作の伝来について触れておく必要がある。水稲と鉄と文字は一体の文化として日本全土で弥生文化を成立させた。水稲は農耕の中心であり、稲作が導入されたことにより、集落形成が進んだのである。と同時に領土という概念が重要になってくる。この領土を守るために琉球においては各地にグスクが生まれ、按司が誕生し群雄割拠の時代となったのである。また、本土日本においても同様であり、稲作伝来と国家形成とは深い関係があったのである。つまり、紀元前300年に伝来したと考えられている稲作によって、集落形成が進み、紀元前100年頃には日本の地で小さな国が形成されていた。西暦57年及び107年には、それぞれ倭奴国王(日本)が後漢(中国)に使者を送り、239年には邪馬台国の女王卑弥呼が魏(中国)に使いを送っている。このことからすると、それよりもっと前に多くの小国家が形成され、そこで多くの戦を経ながら国がある程度統一され、倭奴国王が誕生し政権を執ったと考えられる。そして西暦300年頃までには大和朝廷が統一されてきたのである。
それでは、この稲作はどこからどのようにして伝播してきたのか。稲作の起源は、中国雲南省(4千400年前)や湖南省(1万2千年前)などの説があり、これらは焼畑による陸稲栽培と考えられている。また、水稲耕作は浙江省の長江下流(7千年前)に起源すると言われている。この稲は、中国から3つのルートを経て日本に伝来した。遼東半島から朝鮮半島そして北九州に伝来したという朝鮮ルート、長江から直接北九州に伝来したという対馬暖流ルート、江南から沖縄南西諸島を経て南九州へ伝来したという黒潮ルートである。これまで稲作の伝来は紀元前300年と言われてきたが、最近の研究で紀元前9世紀まで遡る可能性が出てきた。また、黒潮ルートも縄文時代の熱帯ジャポニカの伝来ルートとされていることから、相当早い時期に沖縄にも稲が伝来されたいたことになる。これまでの琉球史においては、12世紀頃に稲が琉球に伝来し農耕体制が整ったという考えが主流を占めていたが、このような考えではグスクや按司の誕生をうまく説明するのが困難であった。しかし、最近の研究からこの通説が大きく覆されようとしている。つまり最近言われている縄文時代、つまり紀元前からの稲作の伝来説によって、琉球のグスク時代の説明がより明確にできるようになるのである。
このようにして誕生した小さな国や琉球のグスクは、その勢力を拡大し、国家を統一するために幾多の戦を経験しなければならない運命にあった。本土日本について言えば、西暦300年大和朝廷統一後においても、古墳時代には物部氏と蘇我氏などの豪族の争いがあり、平安時代になると蝦夷の反乱などが起こる。また日本人の対外的記録としては、中国の南北朝時代、宋に差し出した倭王・武の上表があり、『宋書』(西暦478年) 夷蛮伝倭国条には次のような記述がある。「中国から冊封されている我が国は、遥か遠くの地に置いて、皇帝陛下のために夷荻に対する藩塀とっておりまして、昔から先祖代々みずから甲胃をまとって、山川ふみわたり、身を休めるいとまもなく戦ってまいりました」と述べているのである。倭王・武とは雄略天皇つまり「ワカタケル大王」のことであり、彼は中国に送った書状の中で、中国王朝を中心とした天下の周縁に自己を位置づけ、中華帝国のために「夷」や「毛人」を討つと表現しているのである。
遅くとも7世紀には、大和朝廷は東北地方の一部を支配していたとみることができる。『日本書記』には、「道奥」「陸奥」「陸奥国」の名前が見える。その後。桓武天皇(781~806)の時代には坂上田村麻呂による「蝦夷」征伐がなされ、延暦21年(802)には胆沢城が造られ、盛岡市まで朝廷の支配下に入った。その後も元慶の乱(878)、前九年の役(1056~1064)、後三年の役(1083~1087)などの大規模な反乱や合戦が起きている。また、平泉を中心として権力を誇った奥州藤原家も文治5年(1189)に幕府によって滅ぼされ、そこで本州の北端までが朝廷の支配下となったのである。
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中国との往来は1372年に明の太祖の使節が渡来し、入貢を求めたことから始まる。中山王察度は、直ちに進貢使を出し宝物を献じた。
(冊封使行列図/沖縄県立博物館提供)
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グスクの戦い
このように国家形成過程においては、いかなる国においても、強い国(村集落)が弱い国(村集落)を滅ぼして統一を図って国家統一へと進むのである。そしてそこには、すさまじい戦いが繰り広げられた。琉球おいても然りである。グスク時代は按司の時代であり、300以上のグスクの按司たちが戦いを繰り返し勢力を拡大していく群雄割拠の時代で、いわば戦国時代であった。琉球に於ける戦を見てみると、607年から609年にかけて中国隋の楊帝が琉球を攻める。しかし琉球が抵抗したために侵略は阻止された。8世紀にはグスクの戦いが各地で始まる。1180年舜天の乱で舜天が浦添の按司となる。1186年利有の乱で天孫子王統は滅んだ。1260年英祖の乱で英祖が中山王に即位した。1322年柏の乱で柏尻芝が中北山を滅ぼし、北山王となる。1326年から約100年間、三山対立時代(中山、南山、北山)が続いた。
三山の成立とは、按司が群立していた時代はやがて終わり、14世紀頃から、按司の中でも特に力を持つ者、「世の主」が登場する。集落は統合され、最終的には沖縄本島が三つに分かれ統治されるようになった。北から順に北山、中山、南山と呼ばれ、特に中山が勢力を誇っていた。三山はそれぞれ、北山が今帰仁、中山が浦添、南山が島尻大里のグスクを拠点とした。1393年尚巴志の乱で尚巴志が佐敷按司となり、1406年尚巴志・武寧の戦いが起こる。尚巴志が中山王武寧を滅ぼしたのである。つまり、中山王の察度が死んだ後、王位は武寧が継いだ。だが、武寧王の評判はあまり良くなく、即位後10年で佐敷グスクの按司であった尚巴志によって追い落とされる。尚巴志は、父である思紹を国王とし、これによって中山に第一尚氏王朝が興った。思紹は明(中国)と冊封関係を結び、中山は明との貿易によって繁栄した。この三山の戦いは1429年まで続いたのである。
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野村耕栄(のはら・こうえい)
沖縄県出身。少年時代より、喜屋武首里手を父・薫から学ぶ。大学時代に一時期、上地流にも入門。その後、首里手小林流を学び、現在小林流範士九段。1982年沖縄空手道少林流竜球館空手古武道連盟を設立。1985年全琉実践空手道協会設立。1992年より毎年6月沖縄県において、「全琉空手古武道選手権大会」を、2002年より毎年11月にカルフォルニアにおいて、「US-Okinawa Karate Kobudo Open Tournament」を、2006年より毎年4月ロンドンにおいて、「EU-Okinawa Karete Kobudo Open Tournament」を主催・開催。東京世田谷道場、埼玉大宮道場に支部道場を有す。詳細は、「竜球館」webサイトからアクセス。早稲田大学大学院博士後期課程スポーツ人類学研究科在学中。 |
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